かつては美徳だった「物を捨てないこと」は、今や悪徳とまでは言わないが、
「醜徳」(あるいは汚徳)に近いものとなった。
今や、「断捨離」という言葉は、立派な(?)市民権を持っている。
さらに、プロの片付けコーチングまで現れた。
(ところで余談だが、捨離は「捨て去る」という意味の仏教用語だ。
捨離に「断」を付けたら、「捨離を断つ」ということ。
…….なので、意味が逆になってしまうのではないか、と思うのだが。まあいいや)
実際のところ、これは時代の変化だ。
しかし、ついて行けてない年配の人が多いのではないか?
実際のところ、”ウチの親が捨てずに、物を溜め込んで…….”という声はよく耳にする。
新しい時代イメージを体感できていなければ、そうなるだろう。
何しろ、 かつて物は少量生産され、今ほど安価ではなかった。
だから、一生モノとして大切に使い込まれていた。
とは言え、そんな古き良き時代は、日本では高度経済成長まで。
後は、ゆっくりと終焉に向かって行った。
そして、バブルの頃には完全に消えた。
そのプロセスをたどってみよう。
高度経済成長の頃、最初に三種の神器と言われたもの。
それは、電機洗濯機、テレビ(白黒)、電気冷蔵庫だそうである。
この三つを手に入れることで時間を手に入れた主婦たちは、パートに出るようになった。
その後、三種の神器は進化した。カラーテレビ、車、クーラーになったのだ。
広告は、「あの家が買ったならウチも……」と競争心と所有欲をあおるものだった。
物を「所有すること」はステータスでもあった。
では今は、どうなのだろう?
企業は、国際的な為替差益や賃金格差を利用し、大量生産、薄利多売だ。
だから、安くなった物が、ちまたにあふれている。
一方、古き良き時代の精神の人は、高い物を買うことには、抵抗がある。
ところが今、店頭で並んで物は安い。購入することに対するハードルはずっと低いのだ。
そこで、店頭に並んでいる安い物を、つい購入してしまう。
所有はステータスだという刷り込みも、無意識にはあるのかも知れない。
その上、かつては物を捨てないことは美徳だった。
だから、もらった試供品、買った物を捨てることには抵抗がある。
結果、物が増えていくばかりになる。
しかし、人間が使える物の量には限界がある。
だから不要不急(コロナ用語だが ^ ^)の物が増えていく。
結果、居住スペースが物に奪われていく。
肉体で言えば、息を吸うのに、肺の面積が小さくなることになる。
氣の交流は縮小する。
それだけではない。
人の住まない家が立ちどころに荒れていくように、
人に使われていない物は、邪気を放つようになっていく。
「3年間着ていない服は処分する」という片付けの法則は、ここから来ていると思う。
邪気を放つ物を居住空間に置いておくのは、身体に良くない。
また、「見て心がときめく物はとっておいても良いが、ときめかない物は処分する」という法則。
これも、物が邪気を放っているかどうかを観る、ということだ。
なぜ、使われない物は邪気を放つようになるのだろう?
それは物にも心があるからだ。
かつては物自体が少なく、”一生もの”として使い込まれていた。
所有者の氣が行き届いていたことで、物の方も満足していた。
今、家の中であふれている、所有者の氣が届かない使用されない物たち。
彼らの魂は死んで、不成仏霊となっている…….。
彼らの魂は再生させるか、成仏させるかのどちらかしかない。
ようするに、リサイクルに出すか、感謝して捨離するかである。
最近のブログでは、断捨離(「断捨離」という言葉に対して文句を言っておきながら、使っているのもなんだが…….)と
地球が新時代になることについて述べてきた。
今、僕は、断捨離し、新しい時代の変化に対応する必要性を、ひりひりと痛いほど心身に体感しているのだ。
時代感覚が良くて、無意識に断捨離を始めた人も多いようだ。
僕が心身が痛むほどに感じている断捨離の必要性と、
新時代に飛び立つこととには、どう具体的に繋がるのか。
正直、言語化できなかった。
しかし、あるときハタと気がついた。
両者は、ちょっとやそっとの関わりではなかった。
数千年単位での人類史の大転換の中で起きていることだったのだ。
これについては、次のブログで論じることにしたい。
追記:一方では、こんな人たちがいる。
彼らは古き良き時代の犠牲者だろうか?
それとも時代の変化の犠牲者だろうか?
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