「場に責任を持つ」というのはタオサンガ(僕が関わっている修行コミュニティ)の用語である。簡単に言えば、”複数の人と一緒にいるとき、「責任を持ってその場を楽しいものにする」という意味である。
先日、カナダの雄山さんと、モンテリオールのタオサンガ・ギャザリングのプログラムの検討をしていた。その際、”みんなが場に責任を持つようにならないとタオサンガとは言えないよね”、ということで意見が一致した。
「場」については、BAR(酒場)をイメージしてもらえば分かりやすいと思う。なにせビジネスでお客さまは神様である。だから、BARの場を盛り上げる責任があるのはBARを運営しているママでありマスターで、お客様ではない。
もっとも僕は、通常のBARに行ったことがない。なので真の実態は分からない。が、実は一度だけ、僕がかつてCDを出していたレコード会社の社長に、京都の有名な和風ゲイバーに連れて行ってもらったことがある。(どれぐらい有名かと言うと、林真理子が雑誌に書いているぐらい。あと有名な写真家もそのとき来ていたと思う)
たしか、社長の家族である奥さんや小学生の女の子も一緒だった。でも実にママたちは、一人も飽きさせることなく、誰もが楽しくなる場をクリエイトした。それは見事なアートだった。
さて、道場では、お客さん側に回る人と運営側に回る人がいる。(精神的に) 何年いてもお客様然としているのでは、とても修行の成果が出ているとは言えない。
なにせ、場の中に一人黙り込んでむすっとしている人がいると、合わせて黙り込む人が出る。それでは、場全体が重くなってしまう。そこで、責任を感じる人がエネルギーを出して、一生懸命にその場を盛り上げることになる。
、、、などについて日本の僕が悩んでいると、カナダの道場でも同じような悩みがあるようだった。それで先のような意見の一致があったわけだ。
ところで僕は、最近、先の「場に責任を持つ」というネーミングをやめた。というのは、「場」の気の状態は、「誰か」が創っているのでもなく、一人一人である。
だから各自は、自身が場に波及させている”気”に責任を持つべきなのだ。そこで、これは「気に責任を持つ」”という言葉がより適切だ、と気づいたのである。
しかし最近、僕的には認識がさらに進んだ。というのは、タオサンガで学んでいる人なら、誰もが自分の気(無意識)に気づいている。このことは、前からクラスで言っていた。だから、気に責任を持つ、というよりも、むしろ”自分の「気に目覚める」”とでも呼ぶべきだったのである。
もっとも、一般にひとは、自分の”気(=無意識)を知っていながら、気づかないフリを自分にしている。いわゆる、一人二役を演じているのだ。
それはなぜか?
もし自分が、自分の気(無意識)に気づいていることを認めてしまったら、責任を持った行動をする以外の選択肢が残されていないからである。
自分の無意識に責任を取るのがイヤだから、自分の気(無意識)に気づかないフリをしているのだ。自分の無意識は知っているのに、気づかないフリをしているから、いつまでも気に目覚めないまま、なのである。
サイコセラピーも仏教の修行も、目的は無意識に目覚めることであり、タオ指圧も武道も「気に目覚め」ていなければ成り立たない。経絡(気)を診断する、気を観る、気と経絡を治療するのは、気に目覚めずしては不可能である。
それにしても、気に目覚めずして武道をやる意味がどこにあるのだろう? また、そもそも仏教において、無意識に目覚めることは、「覚り」における”基本中の基本”である。だいいち、自分の無意識を認識せずに修行したって、そんなものは、ただの”修行ごっこ”ではないか!
実は「気に目覚める」のは簡単である。気=無意識に気づいていないフリをやめれば良いだけの話である。そこでさらに認識が進んだ。(自分的には)
気づいていない演技をやめることが、「気に目覚める」ということだったのだ。
さらに雄山さんとの話は進み、”一体なぜ人は、「自分の気に気づいてないフリ」などというバカバカしい演技をするのか?”というテーマになった。
そこで彼が言った、”その他大勢が、フリしているからではないですか?”の一言。これは僕にとって、まさに目からウロコであった。
というのは、かねてより僕は、”場に責任を持たない奴が、世の中を悪くしている”と、東京のクラスで言っていたからだ。
少し前に、「ニーチェのように、ただ一人歩め」というタイトルの法話を書き起こしてもらったことがある。その中で僕が語っているのは、”「その他大勢」に従う人間はニーチェの言う畜群であり、まさに世界はそのような人間が悪くして来た”ということだった。
いかに気に目覚めていることが大事なことか!人間の価値がこれで決まる、とすら思うほどだ。
その夜、「気心道」の稽古で、このテーマを実践してみた。
気づかない演技をしている状態だと技はかからず、気に目覚めていると技がかかる。両者の違いは歴然としていた。
気心道を始めてそんなに経っていない女性が、稽古の途中で、””わたし舞台を降りる!”と宣言してから技が突如キマるようになり、みんなを驚かせた。
この時の稽古で気に目覚めた人は、”余計な力が抜けました”と言っていた。演技しない分、余計なエネルギーを使わなくなったのだろう、という自己分析もあった。
さらに面白いことがあった。それは、気に目覚めた人は、気づかないフリをしている人の演技ぶりが、透き通るように見えるようになることがわかったのである。
人によっては、それでも頑固に、気づかないフリをし続ける。それは何故なのかを後日考えてみた。
そうしてわかったことがある。気づかないフリ、分からないフリを続けることによって、気に目覚めた人から気(エネルギー)をもらおう、という無意識の働きだったのだ、、、。
気(エネルギー)をもらおうとすること、、、。実はそれ、「エネルギーを吸う」という働きである。実は、これこそが、”餓鬼性”の特徴なのである。
ところでタオサンガには、「場の責任」というテーマで行う、「餓鬼&菩薩のコミュニケーション」というトレーニングがある。
「餓鬼のコミュニケーション」という言葉からもわかるように、気づかないフリの演技への固執は、人のエネルギーを吸おうという、餓鬼性によるものだったのだ。
タオサンガは今、決定的なターニングを迎えている。誰もが覚醒する修行のシステムが確立しつつある。と同時に、こうした様々なことが、すべてクリアーになりつつある時代を迎えている。
気に目覚めた度合いは、責任感の度合いである。またその人が持つ「智慧」の度合いであり、霊的な覚醒の度合いであり、なおかつ「幸福感」の度合いなのである。先日の気心道では、それが気に目覚めた人たちの無意識に対する共通認識だった。
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