今日、市電の中で、「小銭が必要でしょう」と言って、まひろさんが160円を渡してくれた。
感謝してそれを受け取った僕は驚いた。
手のひらの中の小銭が温かったからだ。
お金をこんなに温かいと感じたことはなかった。
ああ、そうか、と僕は気がついた。
お金って、渡す人の気持ち次第で、エネルギーが変わるものだったんだ、、、。
これからは僕も、お金を払う時には、人に温かいお金を渡すようにしよう、と思った。
、、、一つ賢くなった気がした四国での話。
今日、市電の中で、「小銭が必要でしょう」と言って、まひろさんが160円を渡してくれた。
感謝してそれを受け取った僕は驚いた。
手のひらの中の小銭が温かったからだ。
お金をこんなに温かいと感じたことはなかった。
ああ、そうか、と僕は気がついた。
お金って、渡す人の気持ち次第で、エネルギーが変わるものだったんだ、、、。
これからは僕も、お金を払う時には、人に温かいお金を渡すようにしよう、と思った。
、、、一つ賢くなった気がした四国での話。
やがて沈みゆく夕日に追われながら、誰もいない湖畔の道を一人自転車を走らせている。
人間でいるということは、何かの罰ゲームなんだろうか、とふと思った。
それほど僕の心は苦しかった。
毎年、この季節になると、こうして僕は精神を病む。
胸に十数本もの針が射し込まれたかのように胸が痛くなるのだ。
思考だってまともではなくなる。つい、人間関係だって破壊したくなる。
かなり前までは、きっとこれは自分に原因があるのだろうと思い、自分の修行の拙さを指摘されているような気がして、恥ずかしかった。
だが最近になって思った。
毎年、この季節になると、世の中の悲しみが自分の心のどこかに入って来てしまうんだ。
だから、わけもなく苦しんでいる人に対して、僕は言って上げたくなる。
あなたの苦しみの原因は、あなた自身にあるのではない。世の中の苦しみが入って来ているせいなんだよ、と。
「衆生病むが故に我病む」というのは、維摩経に出て来る維摩居士の言葉。
だが、これは、維摩居士のような立派な人でなくても、とても身近なところで、みんなに起こっていることなんだ、と思った。
もっとも、だからと言って、胸の痛みが収まるわけではないし、理由なく辛い想いの中にいる自分を卑下する心がなくなる、というわけではない。
なにしろ、“他のみんなと同じようではない”というのは、心にどこか引け目を感じるものなんだ。
きっと子供の頃からなんだと思う。僕は毎年この季節に、この世やあの世に住む霊たちの悲しみが、心のどこかに入って来てしまうようだった。
そして今。気がついたら、まるで17歳の秋から一瞬にして今にタイムスリップしたかのような感覚にとらわれた。最近までの記憶は曖昧なままだ。
悲しみに耐え、風に向って自転車を走らせながら、「まっすぐな道でさみしい」と歌った山頭火は、こんな気持に駆り立てられて、独り、旅を続けていたのだろうか、と思った。
注:山頭火(1882〜1939) 放浪の俳人。
「無駄に無駄を重ねたような一生だった、それに酒をたえず注いで、そこから句が生まれたような一生だった」山頭火は晩年の日記にそう記した。その時には、すでに無一文の乞食であった。その境遇は山頭火自らが望んだものだったが、乞食に落ちぶれた後、克明な日記をつけ続けた。しかし山頭火は、いかに親しい友人にもその胸中は見せなかった」(ウイキペディアより)
さらにふっと気づいたことがある。それは僕の極端なまでの楽天性や、それこそ、あっ!と言うまに歓喜あふれたような状態になる能天気さは、毎年秋になってやって来る、この胸の痛みに支えられているのだ、と。
きっと、この苦しさが毎年ある限り、僕の人生は青春なんだろう、とそんなことを思った。
(1)
ピースサイクルで出発し、台風の中をくぐり抜け、3日後に浜松に到着。
アースキャラバン浜松で、ステージを務めた。
その後、ピースサイクルは、東京から来た、司令塔のミクさん、ユッキー、コアラさんの3人に任せた。
そして2日後には、アースキャラバン東京である。金曜日から準備を手伝う。
土日2日間の大きなイベントである。
朝早くから準備をし、その後は一日中、ずーっと会場内でワーク。
(と言っても、基本ウロウロしているだけ。あっ、スタッフのおにぎりとか買いに行ったりはしていたな、、、)
<アミナダブで、ステージを勤めた>
翌日は、後片付け(これは大仕事!)を手伝ってから京都に帰る。
すると何と! その日にはイスラエルから来たアビが関空に到着したではないか!
なぜなら、10月6日から何と!20日間に亘って、世界各地からタオサンガ・メンバーが日本での修行に集まってくることになっているのだ。ああ、無情!
(2)
僕はすっかり「時間」の概念を含む、諸々の状況を舐めていたことに気づいた。
“アースキャラバン東京から「海外メンバー修行講習」が開始までは数日あるから、その間休めば良いだろう、、、”なんて思っていたのだ。
しかしそれは、全くの希望的観測に過ぎなかったのだ。開始の数日前から、“日本、初めてでーす”の人たちが、続々とやって来たのである。> <)
そしてみんな、“センターまで来れば、後はなんとかなる”と思っている。(こっちもそう思っていたので文句も言えない、、、)
僕は何度も、センターのドアの前で待っているメンバーを迎えに行かなければならなかった。
「せめて数日、いや一日だけで良いから休暇を、、、」という僕のはかない夢は、こうして完全に打ち砕かれたのである。
これはまゆさんという人も同じようなものだった。
というのは、「のべ20数名の人たちを全部センターに泊めるのは、かわいそうだ」と彼女はそう主張し、何とかしようとしていたからである。
なので、家をどうしよう?と考えていた。
そうしたら救世主が現れた。一人はえい子さん。広い自宅をみんなのために解放してくれたのだ。
これは感謝の他に、言葉がなかった。
もう一人は、ゆあさん。
彼女の口ききで、一ヶ月間の短期契約で、大きな一軒家(通称・五条ハウス)が借りられることになり、基本的には誰もセンターに泊まらずに過ごせることになった。
ただし五条ハウスは、大掃除を一日がかりで3、4日間もの間、行わなければならかった。
これは、京都メンバーの4人(ほうき、しゅんやさん、みおさん、あすなさん)に手伝ってもらったのだが、みんなの食事をどうするか?とか等、様々なことをクリアする必要があった。
その辺の采配は僕にはとても無理だったので、これらもまゆさんという人にやってもらった。
イスラエルのアビを皮切りに、アメリカからカナダから、オーストリアから、イタリアから、イスラエルからと、続々世界各地からメンバーたちは到着し、僕は次々と2軒の家に振っては送り届けていった。
(カナダのジニーなどは、えいこさんが京都駅まで迎えに行ってくれた)
なので、予定のワークショップは始まっていなくても、みんな夕方にはセンターにやって来る。
まゆさんからは「センターにみんな来て待っているわよ」と電話がかかって来る。
「“みんな待っているわよ”と言われたって、どうしたら良いんだよ、、、。」
結局、僕もセンターに行って、念仏ワークショップらしきものをしたり、食事に連れて行ったりしていた。
なので始まる前日、すでに僕は疲労困憊していた。あっちゃー!
(3)
こんな状態の中で、「タオサンガ・京都国際ワークショップ」(と呼んで良いのかどうかはわからないが)は10月6日に始まった。
朝から一日中、念仏の行法に関するワークショップで、夜にはみんなを湯豆腐の店に連れて行った。
もはや、疲労だのナンダのと言っている場合ではない。
一瞬たりとも手抜きしない。
こうなったら、もう全力でやるっきゃないのだ。
翌日からのスケジュールは、みんなで4日間、長野県の山寺に籠ることになっている。
一日12時間ぶっ通しで音楽念仏を唱える「念仏ハイ!」である。
しかし参加人数を考えると卒倒ものだった。
日本各地から来るメンバーを加えると全部で60名以上になり、完全に寺のキャパを超えていたのだ。
ここまで来ると、さすがにもう笑うしかない。
“えーい、もう、とことんやってやろうじゃないか!”という感じの僕でもあった。
現地との折衝や宿泊などの諸々は、まさとさんがやってくれて(これも僕には無理)、食事の采配はまゆさんで、さんのさんがバックアップという布陣である。
そして翌日の10月7日。一行は、長野県の山寺へと向かった。マジカルミステリー・ツアーの始まりである。
<ビバ! 念仏ハイ!> (←一体、なんのこっちゃ?)
<続く>
ブログ、ちょっと寄り道して、こんなことを書いてみた。
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カップル・家族についての考察
–自己完結カップルが無意識に作る優先順位-
一体なぜだろう?
見ていて微笑ましく感じるカップルがいる一方、なんだか居心地悪く感じるカップルもいるのは?
これはずっと以前から(実は子供の頃から“家族について”)思っていたことである。
一体両者の違いは何なのか?、と。
それで最近になって、あることをきっかけにこの問題について言語化してみることにした。
(1)
まず、「見ていたら微笑ましいだろうな」と感じるカップルの例を上げてみることにしよう。
僕的には、漫画「美味しんぼ」に出てくる山岡と栗田さんのカップルである。
彼らは微笑ましいのだ。
作者が意図して、微笑ましく感じられるカップル・キャラを創っている、とすら感じるほどである。
とにかく彼らのカップルとしての行動やただずまいに、僕は「安心感」を覚える。
それらがどんな行動かと言えば、、、例えば、彼らはよく一緒に人助けをする。
家出少女を自宅にかくまったりすることもあった。
また、田舎から出てきて東京で迷子になった老婆を山岡が背負い、栗田さんが荷物を持って自宅に連れて来たこともあった。
一体これのどこに僕は微笑ましさ、乃至安心感を覚えるのだろうか?
これを考えている内に、山岡と栗田さんが、「人間の優先順位を、自分たちカップル中心に置いていない」ということに気づいた。
“私の彼氏が第一、僕の彼女が第一ですぅ”、とはなっていないのである。
つまり彼らは、「自分たちの中に、他の様々な人たちを入れている目線」を持っている。
カップル・エゴに陥っていないのだ。
だから観ていて微笑ましく感じるのである。
(2)
しかし普通のカップルは、なかなかこうはならない。
カップル・エゴに陥って、優先順位を2人に置いてしまう。
そして他の人は、「自分たち以外の人」となる。
2人だけで自己完結し、開かれた関係性が消失するのだ。
でも山岡と栗田さんはそうではない。
家出少女を自宅にかくまう。
カップル・エゴに陥らず、家出少女を含めた3人を平等に、
大切な存在として扱っている。
迷子になった老婆を、2人して自宅に連れて来ることも同様である。
むしろカップルになったことによって、
さらに利他が広がっているのである。
こういうカップルならば、見ていても微笑ましい。
(3)
残念ながら、ほとんどのカップルは、カップルとして成立した途端、
自分たち以外の人間の優先順位を下位に置くようになる。(無意識に)
そして第三者は、2人によって自分は、優先順位の下位に置かれたことを、
無意識レベルで察知するのだ。
だから一緒にいても、なんだか居心地が悪く感じる。
自分は蚊帳の外に置かれたような、疎外感を覚えるからである。
(4)
大昔の話で大変恐縮だが、「2人のために世界はあるの〜♩」という歌謡曲が流行ったことがある。
そんなモードになってしまったら、カップルと言っても、それは自己愛の変形に過ぎない。
カップルはやがて家族になる可能性を持っているが、家族になってもその延長に過ぎない。
家族愛と言っても、そこにあるのは2人だけ、あるいは家族だけに限定した利他である。
自己完結的に閉鎖された、自己愛が変形した家族愛。
(だから家族自慢が聞くに耐えないのだ)
それは言ってみれば、家族カルトみたいなもの。
他者が居心地悪く感じるのは当然である。
このことは、先に述べたように、子供の頃からいろんな家族に感じていたことだ。
(Facebookには、そんな投稿が満載されている)
(5)
カップルや家族が、自分たち以外の人間を優先順位の下位に置かないとすれば、
それは、よほどそうならないように意識して、強い意志をもって自分たちを律した結果であろう。
しかし実はこれって、本当はどんなことがあっても、やらなければならないことなんだ。
なぜなら、自分たちだけで自己完結してる自己愛カップルや家族は、
真に他者を思いやることができない。
だから、たとえ頭の中は「私たち幸福ですぅ」であっても、
心の底から生まれる真の幸福感には至らない。
またカルマ的には、いずれ現象として、いろいろと大変なことが起こって来る可能性だって、
十分に考えられるのである。
僕が正月をキライなのも、きっとこの辺に理由があったんだな。
正月に、他者を優先順位の下位に置く自己完結カップルや、
家族を観るのがイヤだったんだ。
ブログ参照
http://endo-ryokyu.com/past_blog/?p=873
追記1
結婚式にはあまり行く機会がないのだが、「私たち幸せになりますぅ、祝福してくださいねぇ〜」モードを観たら、自分の無意識はついて行けないだろうなぁ、とも思う。
「皆さんのお陰で結婚できました。ありがとうございます。これからは皆さんから頂いたご恩を、他の人たちに一生懸命お返しして行きます」
↑
“こんな風に、感謝と利他の宣言するんじゃないのかよ〜”と、無意識内でツッコミ入れたくなっちゃうかも知れないしなあ、、、。
(もちろん無意識なので、決して口にはしないし、意識にも登らせないように自己制御するだろうけど) ^ ^
追記2
カップルや家族だけでなく、人の集まりや団体なんかも同じですね。(←引用)
昔から、自己完結した自己愛的な集団には、どうしてもついて行けない。(もちろん個人にも)
(1)
今日からやっと休暇らしきものが取れる、、、。
昨日まで、まるで激戦地で闘っている兵士のような状態が続いていた。
にも関わらず、いろいろな依頼や相談案件などが入って来る。
それにほとほと参って、思わずSNSに
「疲れすぎて風呂に入れなかったのも、疲れすぎて指圧を受けられなかったのも、疲れすぎて身体が痛くなったりしたのも、今回が初めての体験だった。」
などと投稿してしまった。
実は、そんなプライベートなことをSNSに書くのは、自分のポリシーに反する。
それに自分の状況なんて、東部戦線にいたドイツ軍兵士や、南方にいた日本軍兵士に比べたら、まるで楽園のようなものだ。(←と言い聞かせながら、がんばっていたんだよね)
ということで、今は京都近郊を自転車で走っているところ。
「溜まっている心身の疲労を、純粋な肉体疲労に置き換えることで速やかに解消しよう」というわけの分からない作戦なのである。
(2)
さて、ずーっと続いていた激動の活動を少しここで振り返ってみよう。
中東に行ったのが七月下旬。最初は、テルアビブで何と!ワークショップをやっている自分がいた。
アースキャラバン中というこの忙しい時に、ワークショップなんてする頭がよくあったもんだ、と我ながら思う。
でも、イスラエル入国をスムーズにするためには、ワークショップが一番楽なんですよね。(まあ、それだけ、っていうわけでは、もちろんないんだけど)
<テルアビブ・念仏ワークショップでは、バリバリ・ユダヤ教の人にも念仏やらせちゃうのだ。この際、ユーモアがあれば、何だって可能である>
ところで先に「この忙しい時に」と述べたのは、アースキャラバン中東のプログラムも、僕が諸々引き受けていたからである。
このため、日本や海外からの30人の参加者のバス、ホテル、ツアーなど様々な折衝を現地でしていたというわけ。
僕は何を隠そう、ボランティア旅行代理店を兼ねていたのだ。(もちろんメンバーのあいきさんのサポートは絶大。大感謝である)
(3)
難民キャンプの入り口。パレスチナ人に自動車を使わせないように、イスラエル軍がコンクリートを置いているのが悲しい。
(単なるイジメのためなので)
難民キャンプの子供達(知的障害辞児の施設)
<癒されやのは、われわれの方であった>
<罪のないパレスチナ人の大勢の子供達が、イスラエル軍の刑務所に何年も拘束されている。写真は、子どものことを想って涙を流すお母さん>
<話を聴いて涙ぐむ>
<慰めようもなく、思わず抱擁する、、、>
<それでも笑おう!>
<希望を失わずに、、、>
(4)
ツアー・コーディネーターの上、僕にはベツレヘム・フェスティバルでは2回のLIVE演奏もあった。
音楽の時は頭のネジが完全に入れ替わってオカしい人になっている僕、、、。
そんな中で、諸々のコーディネートをしているので、「我ながらよく気が狂わないな」と思わず阿弥陀さまに感謝したのである。
右側は司会の純さんで、イタリア在住のサンガメンバーである。さすが女優をしているだけあって,司会が上手い。
右はわが友エリヤス。
彼は外国人向けの指圧のワークショップがあれば、日本まで来るとのことだった。
エイリアスはクリスチャンのパレスチナ人。
なので、「仏教を基本にした指圧だけど大丈夫?」と聞いたら、「そういうのを学びたい!」とのこと。
エリヤスは人当たりがよく、優しい人間である。
僕は彼のことを、“女性のわがままを何でも聞いてくれそうな奴”と密かに称している。
<アミナダブ>
BE FREE PALESTINE! (パレスチナに自由を!)をみんなで歌う
<ステージに駆けつけてくれたベツレヘム副市長と握手>
<8月6日の広島の日のステージで行った種を植える儀式>
アースキャラバンのコーディネートで、70年前の原爆で生残った樹(被爆樹)の種が、広島のグリーンレガシーから届いた。
それを植える儀式をステージで行った。
国連の人や日本大使館の人等もステージに来てもらった。
一番左は、植物園も運営するベツレヘム大学のマージン教授。
アースキャラバンとベツレヘム・フェスティバルを繋げてくれた恩人である。
<原爆の残り火「平和の火」が、フェスの主催者に渡される。
右側はまゆさんで、そのまた右側が国連に勤める清田先生である>
(5)
写真は、アースキャラバン最終日に行った「異宗教合同のピースウォーク」
これ(上の写真)やらせたユダヤ教のラビに「ちょっとこれ、幼稚園みたいで恥ずかしいんですけど、、、」と言いたくなるのを必死に我慢している自分がいた。
(6)
中東最後の日は、テルアビブでイスラエル・サンガの念仏会を行った。
出国しても日本にはすぐには帰らず、タイで途中下車し、やっと数日をビーチで過ごした。
その後、まゆさんが日本に帰っても、僕は一人居残り、引き籠もって、誰とも口をきかない数日を過ごした。
そして「あーあー、もう帰んなきゃならないのかぁ、、、」とぶつくさ言いながら帰国。
東京でタオ指圧のクラスや法話などを2日間、勤めた。
(7)
、、、帰国して1週間ぐらいたったら驚いた。
ピースサイクル(原爆の残り火である「平和の火」を、京都から東京まで自転車で持っていく)の出発日が、3日後に近づいているではないか!
僕は京都から出発し、自転車で走ることになっていたのだ、、、。
これは自分から言い出したこと。
とはいえ、まったく慌ただしい限りである。
”まるで台風の中を生きているようだな”と思ったら、本当に台風まで近づいて来るではないか!
<というわけで、雨降る知恩院をピースサイクルが、9月14日に出発>
僕は走る気満々であったが、同じく走る気満々のあすな嬢が現れた。(ライバル出現である)
というわけで出発時の自転車は、彼女に譲り、僕はサポートカー役を勤めることになったけど、
まあいいや、後で走ってやるぜい! と出発。
<「ふむふむ。なかなか決まっておるな。」←これはライバル心むき出しの僕のセリフである>
<2人が自転車で走っているのを一人サポートカーで走るというのは、かなりマヌケな役割であった>
<ようやく来た出番>
<雨の中をひたすら走る>
<「台風だぜ、ひゃっほう!」と言って走る>
「ちょっと前までは、中東で汗だくだったのになあ、、、。」と思わないでもなかったけど。
そしてこれからさらに、まだまだ激戦が続くのだ。
、、、というわけで<続く>