柄にもなく平和活動なんてやっているけれど……

<エピソード1>ベトナム戦争

 

僕の手に、その月の新聞代と、

25セントのチップを乗せた老婦人の目は泣きはらしていた。

 

 

そして、「あなたがベトナムに行かないことを祈っている」と言うなり、

目の前でドアは閉じられた。

 

次の集金先に向かう途中で気づいた。

 

“あ、家族の中で戦死者が……?”

 

それは、ニューヨークの新聞配達少年だった僕が、

突然、戦争を身近に感じた瞬間だった

 

<エピソード2>原爆の現実

ニューヨークの新聞配達少年だった頃

日本の広島から来たというお客さんを紹介された。

 

紹介してくれた人が後で密かに言った。

 

「びっくりしたでしょ。彼女は、ね。原爆にあったのよ。

 

あるアメリカ人がお金を出して、

彼女のケロイドを取る手術をアメリカで受けさせているの。

 

アメリカに来て手術受けたのは3度目なんだけど、

前はもっとヒドかったのよ。

 

あれでもずいぶんよくなったの」。

 

突然、「原爆」が目の前の現実になった。

 

大人になってから、僕は、

毎年のように「原爆の残り火」を世界各地に運ぶことになった。

 

<エピソード3>戦場のリアル

催涙弾が炸裂した。

 

煙は遠いのに目が痛い。

 

殺傷能力がある高速催涙弾だ。

 

ここは、パレスチナ西岸地区のビリン村。

 

「私の農地を返して欲しい」と訴える、

平和的な非暴力デモだ。

 

だが現場は、ただ一方的に射撃される戦場だった。

 

それでもイスラエル兵たちは、

パレスチナ人が皆、殺人テロリストと信じているようだった。

 

涙は、いつまでも止まらなかった。

 

 

<エピソード4>原爆の残り火をパレスチナへ

 

 

 

 

つい”「原爆の残り火」をパレスチナまで持っていく”と

約束してしまった。

 

それは、ベツレヘム・フェスティバルの日程を

広島長崎の日(8月6日と9日)

に合わせてもらうためだった。

 

帰国して色々と聞いて回ったが、

誰もが「911以降は、火の空輸は100%無理」と言った。

 

しかし、約束は守らなくてはならない。

 

わずかでも可能性のありそうなことは全てやった。

 

シベリア鉄道でヨーロッパまで運び、

イタリアから船で中東まで運ぶ、という計画まで立てた。

 

しかし最後には、飛行機でヨーロッパを経て、

エルサレムまで運ぶことができた。

 

奇跡だった。

 

僕は、原爆の残り火をパレスチナに運び、

ベツレヘムのフェスティバルで演奏することができた。

 

<エピソード5> 80年前と同じセリフ

子供たちが「ノーモア ヒロシマ」と

書かれたプラカードを掲げて歩いていた。

 

 

驚いたのは、そこが日本ではなく、

パレスチナ西岸のベツレヘムだったからだ。

 

ベツレヘムは平和の使徒イエスが生まれた街だ。

 

しかし、子どもたちの通学は平和にはほど遠い。

 

暴力的な入植者たちにいつ襲撃されるかわからないからだ。

 

入植を奨励するイスラエルのとある女性大臣の発言にも驚いた。

 

「パレスチナ人は、蛇のようなもの。

 

母親も子どもも抹殺されなければならない」。

 

80年前のナチスも、

ラジオで似たようなセリフを流していたのではないか。

 

日本だって、「鬼畜米英」と言っていたが。

 

<エピソード5>原爆とローマ教皇

 

 

 

 

イエスの生まれたパレスチナに住む子どもは、

「ノーモア ヒロシマ」と書かれたプラカードを掲げていた。

 

ローマ教皇は、原爆投下直後の長崎で

死んだ弟を火葬する順番を待っている少年の写真を配っていた。

 

共通点があるから会うことをアレンジしようと思ったが、

「ローマ教皇に直接会うのは、王族か首相クラスでないとダメ」と言われた。

 

何度も絶望的な状態をくぐり抜けた結果、

パレスチナ人の女の子が差し出す「原爆の残り火」を、

バチカンのローマ教皇に吹き消して頂くことができた。

 

その瞬間、「希望の火」の構想がひらめいた。

 

そして、約半年後に来日したローマ教皇による東京長崎のミサでは、

希望の火が灯された。

 

 

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