2012/09/17 Categories: ゲームCHATRANGA

「むかしある所に、一人の孤独な少年がおりました。なぜか彼は、将棋などの、戦争を模したゲームが好きでした。そして、ずっと長い間、自分が一人で考えて来たゲームを、心の中で温めておりました。どれくらい長い間かというと、、、(何と驚くなかれ)その最初の発想が、幼稚園児の頃というほど。

彼が20才を過ぎた頃、かねてより考えて来たボードゲームを、手製で作りました。(ようするにお絵描きね)やがて、彼と同じアパートに住む人たちが、毎晩のようにこのゲームで遊ぶまでになっていました。

そのアパートとは、今や伝説と化している清和荘。ここには、アングラ演劇の役者たちやミュージシャン(彼もその一人)、また世の中からドロップアウトして自由に暮らす多くの若者たちが多く住んでいました。

<清和荘の住人たちの一部。「金はないけど、心は自由」。旧中野スパイ学校の元校舎というウワサだった、ボロアパート>

清和荘は、三畳一間しかないのに、どこかの部屋で毎晩のように宴会が行われていました。自由に暮らす若者たちは、時間だけは贅沢にありました。そして、みんなこのゲームをするか観戦して遊んでいたのです。

やがてこのアパートには、インドなどを旅する西洋人ヒッピーたちの間でも有名になりました。そして、彼ら西洋人たちも交えて、このゲームは日々改良され、ルールが整備されていったのです。

<後に西洋人たちも住むようになった。左下のビッキーは、このゲーム大好き。最近、パキスタンに住む彼女とフェイスブックでつながった>

その後もルールの研究は続きました。ゲーム内容は深化し、ついにはベーシック、アドバンス、ファイナルと三種が完成するまでになりました。それは、手製のボードゲームを作った時から、10年後のことでした。

ゲームは一時、自ら製品化して、東京のおもちゃ屋などでも販売したり、2、3のゲーム雑誌でも紹介されていたこともありました。また、任天堂の先代社長に、「テレビゲームが流行る前だったら、一世を風靡しただろう」(個人的にちょっと知っていたので)と言わしめたほどでした。しかし、再び自分の心の片隅にしまわれるようになり、いつしか日の目を見る時を待っていました。

<ゲーム雑誌で紹介されたり、都内のおもちゃ屋、数店で販売していたこともあった>

現在このゲームは、Chara-TX(チャラティックス)と名付けられ、オンラインで遊べるように、プログラムが進められています。」                          一応、物語はここまで。

こんな歴史の果てに、このところ急増しているのが、Chara-TXプレイヤー(チャトランガーと呼ぶ)である。そして東京でも、第一回のミニ大会があった。(昨日、第二回があった)

<楽しそうなのがいいなー>

<この最後の一振りで勝つかも!>

<右が、元清和荘の住人の一人。今やププスの名で有名な、ヨーシンさん。左は、25年前にカトマンズの安宿で友だちになったクライブ。彼は一時、香港の伝説的な安宿、チョンキンマンチョンに住んでおり(現在は東京在住)、夜な夜ないろんな人にこのゲームを教えて、やりまくっていたという。>

多くの人が、僕が考案したゲームで遊んでくれるなんて、長年、自分の心にしまって来たことが実現しているようで、まるで夢のようである。

 パレスチナ映画イベントの夜、東京センターで音楽念仏の修行会や法話後には、夜遅くまでホームページのミーティングがあった。

そして遅い夕食をサンガの皆さんと居酒屋で取ったが、チャラテックス・ゲーム話で盛り上がったのは、僕には垂涎ものの喜びであった。

「ああ、人よ。笑わば、笑え」

<ミニ大会で最高勝率賞を取ったゆうすけ(左)と、「かませ犬賞」と呼ばれる最高負け率賞を取っただいすけさん(右)。堂々としているだいすけさんが、とっても大人(たいじん)に見えた。