僕は「インチキやろう」になりたくない

先日、声明修行の特別ワークショップを行った。

 

その時、松本から来ていたお富さんという方が、

「自分は餓鬼の世界に行きたくない(死んだ後)」と言った。

 

その言葉は、かすかなトゲのように僕の心に残った。

 

「一体、自分はそんな恐怖を

お富さんに与えてしまったのだろうか?」

というのもあった。

 

何せ僕は、自分に対して、未だに妥協できない。

 

要するに、サリンジャーが書いた永遠の青春小説、

『ライ麦畑でつかまえて』に出てくるホールデンのようなものだ。

 

「インチキやろうになりたくない」は、彼のセリフだが、

自分自身もそうなのだ。

 

ところでこのホールデンは、17歳ぐらいだ。

 

どんなヤツかというと、

同世代の友人たちが、

世間に合わせて大人の狡さを身に付けていくのを

見るのが耐えられない。

 

「あいつらはインチキやろう」だと言い、

次々に高校をやめていく。

 

僕もそんな感じで、高校を2つやめたのだが、

未だに、心の中でホールデンを演じている自分がいる。

 

(もうこうなったら、いっそ表彰されたいぐらいである)

 

だが、人を「インチキやろう」と糾弾するその声は、

いつも、そのまま自分に向かう。

 

だから、当然、自分に対しては厳しくなる。

 

そしてその厳しさは、他の人のも向かう。

 

ただしそれは、僕の無意識が「自分に近い存在だ」

と認識した相手にである。

 

だから、切ない想いで向かう。

 

特別ワークショップに来たような人にはそうなるだろう。

 

特に、修行コミュニティに貢献している人に対して、

それは強くなる。

(「自分に近い存在だ」と認識した場合は)

 

お富さんは道場を寄付し、

さらに多額の布施までされている。

 

言わば大施主である。

 

しかし一方では、

その場限りの学びをしているようにも見える。

 

また、道場の気も下げる。

 

しかし、大施主であるお富さんに対して、

僕の無意識は、「自分に近い存在」だと認識する。

 

だから、僕は当然、

そんなお富さんに対して厳しくなる。

 

お富さんの言葉が、

かすかなトゲのように僕の心に残ったのはなぜか?

 

それは、「自分は餓鬼の世界に行きたくない(死んだ後)」

と言うお富さんに対して、

僕はどのように答えるべきかを考えてしまったからだ。

 

ところで、諸仏菩薩や神々に守られている「氣の状態」がある。

 

それは、とても快く、温かく、軽い。

まさに「天にも昇るような感じ」である。

 

先日のワークショップでは、

誰でもこの氣の状態になれる方法を体験してもらった。

(以前とは異なる、全く新しい次元で実践できる方法である)

 

要するに、これから毎日、

そのメソッドにしたがって

やっていれば、

誰でも、諸仏菩薩や神々に守られる

 

ところが、そこに向かって努力しなければ、

真逆の気の状態になる。

 

それは、不快で重い。

 

カルマや邪気にまみれて、「氣が堕ちていく感じ」になる。

 

(通常、人間は、この状態の中で生きているので、

気づかないが、お年寄りになると、ほぼこれが露呈する)

 

その場限りの学びを繰り返しているたお富さんは、

”自分はこのままでは、「氣が堕ちていく感じ」になる可能性がある”

と感じたのかも知れない。

 

”そのまま、氣が不快で重く、

カルマや邪気にまみれて死んでいくなら、

餓鬼の世界に生まれるのではないか?”と

心配になったのかも知れない。

 

僕はそう思ったが、

これをどう答えるかは、かなり難しい。

 

なので、ストレートに書いてしまう。

 

お富さんは、餓鬼には堕ちず、浄土に往くだろう。

 

それはなぜか?

 

誤解を恐れず言えば、

道場を寄付し、

さらに多額の布施までされているような

大施主だからである。

 

”じゃあ、地獄の沙汰も金次第ということかよ”

と言われそうだが、そうではない。

 

では……?

 

…….僕が身代わりになって、餓鬼界に行ってでも、

お富さんには、浄土の往ってもらうからである。

 

それはまたなぜ?

 

僕が個人的にもらったものは1つもない。

(お富さんに借りがあるというわけでもない)

 

だから、実を言うと、その理由は分からない。

 

それでも、自分が代わりに餓鬼に行ってでも、

お富さんには浄土の往ってもらう必要がある。

 

全く論理的でないし、合理的でもない。

 

しかし、そうでないと、宇宙の理法が成立しないのだ。

 

世界が良くなることに、

そして人々の霊性が高まることに貢献した人は、

必ず報われなくてはならない。

 

なぜなら、それが宇宙の理法だからだ。

 

そこは、超法規的というか、

因縁因果の理を超えてでも、

そうならなくてはならないのだ。

 

たとえお富さんの氣が、

堕ちるものであろうとも、

そのカルマは誰かが引き受けるのだ。

 

そこでまあ、結局、僕が引き受けるつもりである。

(これまで言語化して考えたことはなかったけど)

 

その辺りに考察が進んだ時、

僕は、経典の言葉をハタと思い出した。

 

「たとえ自分の身は苦しみの毒の中にあろうとも、

自分は修行に精進して、悔いることなない。

一切の恐れる人の安心のために、、、」

という言葉である。

 

なるほど、こういうことか、と思った。

 

「修行に精進して」というのは、

人のカルマを引き受けるということで、

あれは、そんな覚悟の言葉だったんだ…..

 

そして、だからこそ僕は、

自分に近いと無意識に認識した人に対して、

そのカルマを引き受ける覚悟で、

安心して厳しくなるんだな、と思った。

 

そんな時の僕の切なさを

知る人はいないだろうけど。

 

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