3年近く住んだニューヨークから帰国したのは中学2年のときだった。帰国子女は体育の先生からイジメられたりもしたが、僕の原風景は、毎日夕方になると通った高架線の下にあるうす暗い新聞配達所だった。
配達所のオヤジは戦後日本に駐留していた海兵隊だったおっさんだった。他の少年たちはプエルトリカンなど、移民の子たちだった。新聞を詰めるカートは? とオヤジに聞いたら、他の新聞少年に聞け、と言った。先輩の少年は、ショッピングセンターから盗むんだよ、教えてくれた。他に方法もなく、僕はそれにしたがった。
親切だったジョーという先輩の少年は、ショッピングセンターまでついて来てくれた。彼はイタリアからの移民だった。僕は彼の指導のもと、首尾よくカートを盗み出すことに成功した。
盗んだカートにラジオを引っ掛けて新聞を詰め、僕は街を歩き、音楽を聴きながらアパートからアパートへと新聞を配った。ラジオでは、ビートルズの「カム・トゥギャザー」なんかがよくかかっていた。ウッドストックのポスターが街のいたるところに貼ってあったし、ヒッピーたちは裸足で歩いていた。
ただ黙々と仕事をこなすだけだった。楽しみと言えば、配達所の隣にあった店に1つだけある、10セントのピンボールをごくたまにやること。あとは5セントの4コマ漫画付きのガムを何日かに1回買うぐらいだった。ガムを噛んだ瞬間は幸福感が広がった。
もっとも、4コマ漫画の「あんたは動物園の匂いがするわよ〜」なんていうオチは、僕には意味不明だった。でも、日本語の本など滅多に手に入らなかったし、仕方がなかった、
今から考えると、60年代後半は「LOVE&PEACE」、”新しい時代が来る!”という希望にあふれていた時代だった。ただ僕には、そんな華やかなことも、また希望にも無縁だった。
帰国した僕をイジメた体育の先生や他の生徒たちは、きっと帰国子女という華やかなイメージで僕を見ていたのだろう。でも当の本人には、ただ、社会の底辺の空気を吸って生きていた原風景があるだけだった。
このとき僕は、他者が抱くイメージがいかに本人とは無関係かを知ったのだった。
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