2013/09/12 Categories: 未分類

僕の母親の名前は、春枝さんと言うのだが、息子(つまり孫)も含めてみんな春枝さんと呼んでいる。実は本人、最初はそのことを、どーたらこーたら言っていた。

だが今は、僕に送ったメールの最後に「春枝」と自分で署名しているから、きっと納得しているのだろう。ところで、春枝さんの年齢を僕はよく知らない。(忘れた)

春枝さんは戦時中、女子学徒動員で落下傘を作っていたそうだ。それで毎晩、空襲警報のサイレンを聞いては、防空壕に逃げ込んでいたらしい。(まあ当たり前だが)

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<こんな格好をしていたのだろう(推定)>

春枝さんは、“あの「ウー」っていうサイレンの音と、B29(米軍が使っていた戦略爆撃機)が「どーん、どーん」って爆弾を落とす音が、イヤなのよね〜”と言っていたことがある。(ただし春枝さんが言うと、あまり深刻には聞こえない)

春枝さんはお嬢様育ちなので、自宅に防空壕があった。僕は子どもの頃に行ったことがあるが、あの時代に、サンルームはあるし庭には池があったり、また老子っぽい石像まであるので驚いたことがある、というか子どもの頃はあの石像は不気味であった(残念ながら、おイエの事情があり、今はもうない)

春枝さんが、ある日、別の防空壕に隠れたら、そこに直撃弾が当たったことがあるそうだ。爆発していたら死んでいたけど、運良く不発弾だったから助かった、ということであった。まあその結果、自分も生まれることになったわけである。

 一方、僕の父親は海軍で駆逐艦に乗っていたそうだ。しかし米軍の魚雷攻撃で沈没し、漂流して助かったと聞いたことがある。

また末期の日本海軍は、人間魚雷(海の神風特攻隊)の志願者を、半ば強制的に募っていた。しかし部隊の中で、僕の父親ともう一人だけが志願しなかった、と春枝さんに聞いた。

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<人間魚雷『回天』。こういうのに一人で乗って敵艦に突っ込んで行くのって、自分だったら、このときどんな気持になるだろう?>

実は、僕は、まだ幼かった息子の結万(当時、小学生)と、「一体、勇気がなかったから志願しなかったのか、それとも勇気があったから志願しなかったのか?」と、父親が亡くなった後にディスカッションしていたことがある。

結万の意見は、“あの時代に志願しないのは、相当に風当たりが強いはずだから、よほど勇気がないと、志願拒否なんてできないよ”というものであった。

一方、自分の父親への反発心が強い僕は、“いや〜、そうは言ってもね〜”と、小学生の息子の前で、個人的感情むき出しの意見を出していた。(ようするに、僕自身が、しょーもねー、ダメ親父なのである)

しかし、もしかしたら、その僕の意見は、最初の仏教の先生(法蔵寺住職)が、元ゼロ戦のパイロットで神風特攻隊の生き残りだったことと、関係があるのかも知れない。

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<特攻隊の出撃を見送る女学生>

富永上人は、いざ出撃の日に「おまえは寺の息子だから、これから共に出撃する仲間のために、お経を読み上げてくれ」と言われ、お経を書いて読み上げていた。

ところが、しばらくしたら、終戦を告げる天皇の玉音放送があった。それで、出撃命令が解除になり、出撃しなかったのである。

そして戦後は、自分だけ生き残った、というやり場のない想いを持て余し、山に入って念仏修行に打ち込んだ、と人づてに聞いた。

さて、僕はどうしてまた、長々とこんな話を書いたのだろう? 昔話なんて、自分が一番キライなはずなのに。

実を言うと、アメリカ在住の日本人女性、すみこ・バイニンさんからの依頼で、沖縄戦時写真の返還プロジェクトに関わることになったからである。

そして僕は、すみこさんが(そして僕が)、今回このような役割を取ることになった因縁は、一体何なのだろうか?”と考えていた。

<祖父母や両親が生き残ったから今の僕たちがいる

春枝さんが隠れた防空壕を直撃した爆弾が、通常通り爆発していれば、僕はこの世に生まれなかった。

乗っていた駆逐艦が沈没し、漂流していた父親が運良く拾われなかったら、僕はこの世に生まれなかった。

終戦があと1日遅かったら、僕の最初の念仏の先生は特攻で死んでいたから、僕が今のように法話などしていることはなかった。(その人の法話が、今の僕の法話の下地なので)

先の大戦では、300万人の日本人が死んだのだ。僕の両親のように、運良く生き残った人たちがいるから、今生きている僕たちがいる。言うなれば、亡くなった人たちのお陰で、今僕たちが生きている、と思うのだ。

因縁とは、目には見えない背後の働きのことだから、このプロジェクトは、目には見えない、先の大戦で亡くなった人たちのたましいが平和を訴えている声を聴くことだ、と僕は理解している。

人生で起こるすべてのできごとは、因縁によってアレンジメントされている。だから、このプロジェクトの元になった、すみこさんの果たす役割もまたそうだと思う。

 そもそも、すみこさんのご祖父は戦死されている。ご祖母は、1日で都民10万人が焼け死んだ、3月10日の東京大空襲に遭った。

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<10万人の東京都民が、一日で焼け死んだ“東京大空襲”>

その結果、ご祖母は、命からがら残された家族7人を連れて田舎に疎開した。(その内の一人が、すみこさんのご両親のどちらかである)そして7人という大家族を養うため、やむなく栃木市の任侠の親分の庇護を受けて、芸者さんまでされた。

上野に稽古場を持ち、三味線と日舞の師匠までされるほど才能豊かな女性が、そういうことまでしなければ、生きていけなかった時代である。

しかしご祖母の言葉が素晴らしい。ご主人が戦死し、家も破壊されたのに、その口癖は「戦争のことは誰もうらんじゃ駄目よ。ほとんどのアメリカ人も日本人も悪くないのよ。政府同士が戦った犠牲者なのよ。」だったというのだから。(facebookやtwitter で流したいぐらいである)

 僕は、「沖縄戦時写真返還プロジェクト」に、“聴こえますか? 平和の礎となった、彼ら兵士たちの声が”という副題をつけた。

NPOユニのホームページに、すみこさんとのやり取りなどの詳細や、写真等を掲載した。ぜひ、ご覧いただきたい。そして、写真のご遺族が見つかる何らかの情報を頂けたら、心底、うれしく思います、、、。

 

 

コメント(4)

  1. すみこ より:

    私の祖父、めっちゃイケメンなんですよ。下町の飴やの倅で、粋な装いで、労働は好きでなかったんですが、すごいアイディアの持ち主で彼のアイディアで千住と恵比寿の店は繁盛してたんですって。祖母がまた粋で藤間流の日舞と長唄小唄、三味線の師匠だったんですが、疎開先では農家の人が高価な着物とほんの少しのお米しか交換してくれなかったんですって。だから荒地で食べ物を育てたそうなんです。東京育ちで野良仕事なんてしたことなくて、農具で指の先を落としちゃって、でも90才の声を聞くまで三味線を弾いていました。気丈な人だったんですが耳が遠くなるまでは飛行機の音を聞くたびに「きゃ~。」っと叫んでました。先生、色々助けていただきありがとうございます。Peace, すみこ

    • admin より:

      カッコいいご祖父母ですね!そういえば、藤間流の家元の息子さん知っていますよ。つくづく、因縁ですね〜。Ryokyu

  2. すみこ より:

    お父様が亡くならなくてよかった~。漂流。。怖い思いをなされたんですね。春枝ママも防空壕の中で。。悪夢のようですね~。生きてらしてよかった。
    藤間流ってかっこいいですよね。残念ながら、祖母も母も名取なのに私は習うことを禁止されたんですよ。「女は芸はもっちゃだめよ。芸がなかったら、違う人生だったって。」芸の道に生きたのに、後悔していた。。矛盾だけど。。わかるような気もします。それよりも、祖父母のそしてその家族の楽しかった生活が戦争でシューっと全て無くなってしまったんですよね。春枝ママさんもお嬢様だって、防空壕の中に潜んでいなくてはならなかった。世界平和のために声を出していかなくてはいけませんね。

  3. すみこ より:

    叔父よりメールにて7人じゃなくて8人だと訂正されました。
    叔父のメールより
    1、ひいじいちゃん
    2、ひいばあちゃん
    3、亡くなった文江ちゃんのお父さん
    4、亡くなった文江ちゃんのお母さん
    5、ひいばちゃんのお兄さん
    6、ひいばちゃんのお兄さんの長男(6年前に沖縄で死にました)
    7、すみこのお母さん
    8、そして私
    の8人です。
    いずれにしろ大変だったようですね。

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