2012/02/12 Categories:

 以前は、夜のミニバスで12時間全力疾走し、ダッカとコックスバザール間を行き来していたものだ。しかし今回から、バングラデッシュ国内便の事情も良くなったのか、飛行機で行けるようになった。おかげで時間が短縮できた分、現地での活動内容を増やすことができた。

 今日は、1時に空港に行くことになっていた。“ならば、、、”と僕は、午前中に仏教協会との会議を設定してもらった。朝、タオサンガセンターで数名で集まり、まずは念仏のお勤め、その後、ミーティングに入る。内容は、ラカインUNIと仏教協会の今後の調整である。

 なにせ人間が集まってのことなので、いろいろある。途中僕は、星一徹のように、ちゃぶ台を引っくり返そうと思った。しかし、ちゃぶ台はなく、最後は和気藹々の握手で終わった。ふうー。

 その後、再び仏舎利塔へ登り、次の整備に向けた確認作業を行った。すると、念仏堂に仏像を奉納に来られた方がいた。尊いことだな、と思った。

<仏舎利塔>

<仏像の奉納にいらした>

 ラジョーさんの家にランチを食べに帰る。ラジョーさんには、生まれて間もない娘さんの日本名をつけて欲しいと頼まれていた。それで数日考えた上、れいや(零弥)という名前にした。弥勒菩薩(マイトレイヤ)のレイヤは、たしか友情という意味だったと思う。

 零は0だから空を意味し。弥は、阿弥陀さまからもらったから、空=阿弥陀という意味だよ、と説明したら、とても深く神妙に喜んでくれた。

<奥さんと、れいや(零弥)ちゃん>

 1時になり、空港へ向かう。何ヶ月にも感じたこの6日間だった。それにしても、寂しそうなラジョーさんがいる。僕はつい何度も“ラジョーさん、大丈夫ですか?”と言ってしまった。

 ダッカの空港に迎えに来てくれるラカイン人の学生さんを、ラジョーさんが手配してくれた。ホテルも探しておいて、そこまで連れて行ってくれるという。期待していなかっただけに、親切が身に沁みた。

 心の通い合う人との別れは、いつもさみしいものだ。ラジョーさんも、日本に来れるようにして、差しあげたいものだなぁ。そう思いながら、空港ラウンジ(と呼べる感じでもないのだが)に入る。ラジョーさんは、日本式のおじぎをした後に、見送ってくれた。

 ダッカの空港に着いたら、三人のラカイン人の学生が迎えに来てくれていた。そして、みんなで探したという、安いホテルに連れて行ってくれた。

 荷物を下ろし、ダッカ観光ということで、バスに乗って建築物を見に行く。しかし、あえなく渋滞。何でも、一ヶ月続いた祭りをこの先でやっている。その祭りの最後の日が今日だからという。

 30分以上動かなくなったので、諦めてホテルに戻り、みんなで早めの夕食に行くことにする。カレーや豆スープなどのベンガル料理をおいしく食べた。

 彼らが、科学専攻の学生さんたちだと聞いた僕は、“チェスとか、そういう考えたりするゲームって好き?”と聞く。すると、“チェスとかやりますよ”という。

 すかさず僕は、“実はこれ、僕が発明したゲーム。近く、オンラインでできるようになる予定なんだけど、やってみる?”と聞く。すると彼らは、“おおっ!”と目を輝かす。

<写真は、タオサンガセンターでゲームをやった時のもの。ダッカでは、電池切れで写真が撮れなかったので>

<真剣勝負!>

 さっそく教えて、ゲームを始める。いやー、実に盛り上がりましたねぇ。確かな手応えを感じましたよ。  笑ってしまったのは、じっと観戦していたレストランのウエイターが、“おい、この戦車もっと進ませた方がいいぞ”とか、口出しして来たことである。ふふふふ。

 二、三戦やった後、“このゲーム、1つしかないんですか?”と名残残惜しそうに言う。それで、“上げるよ”と差し上げて来た。みんなで楽しんでくれぃ。

「将来は、学校でトーナメント戦やろう」とか、「そんなら優勝者には、僕が賞品出すよ」とか、「僕、絶対それもらうから」との話で盛り上がる。

 僕は、“万国のタオチェスゲーマーよ、団結せよ”の気分である。(マルクスの友だちのエンゲルスという人の書いた“共産党宣言”の最後の一節をもじったもの)

 学生さんたちが帰った後、一人僕は、夜の街を散策に出かけた。大通りには、信号もない。これを渡るのは、命がけである。例えて言うならば、東京の環状七号線に信号がなく、そこを渡るようなものである。

 しかし僕は、現地の人を真似して、必死に道を渡り、夜の街に繰り出す。一体、何のために? ダッカの街を見て回りたいという、ただそれだけである。単なる好奇心のために、命がけで道を渡るのだから、実にアホなのである。しかしアホは、アホなりに存在意義があるのだ。

 たとえば、コロンブスだって、そんな人間だったんじゃないかなあ。まあ、彼がアメリカ大陸を発見したために、インディアンはひどい迷惑を蒙ったのだけど。

  さて、夜の街やバザールなんかを散策した後、ようやくホテルに戻る。(帰りは陸橋を見つけたので、命がけではなかった)部屋に戻っても、途中に出会った「本物の乞食」の残像は、なかなか去らなかった。ニセモノには、余裕をもってお金を上げたりできるんだけど、本物の気迫には、いつも圧倒されてしまい、決して慣れることができない。

 ホテルは安くて良かった。しかし、大通りの車の騒音が大変うるさい。果たして眠れるかなぁ、と思ったが、いつしか、まどろむことができた。

 明け方、うす暗い部屋で咳をしていたら、とうとう真っ赤な血タンが出た。(うす暗いので、まっ黒く見えた)。ずっと、咳しながら活動していたが、実は3日ぐらい前から、タンに血が混じり始めていたのだ。

 一瞬、“結核にでもなったかな?”、何て思った。その瞬間から、すでに心は、梶井基次郎とか立原道造みたいな昔の文士である。“こりゃ、さっそく詩か小説でも書かなくちゃいけないな”なんて、、、。

 そこで僕は、“けっ、これぐらい何だ!”と、まだ暗い寝床で無言で吠える。「旅に病んで、夢は枯野をかけめぐる」(松尾芭蕉)だ。旅するバックパッカーは、これぐらいではめげんのだ。今年のバングラデッシュ、最後の日の明け方、、、。

<後記:心配される方もいらっしゃるかも知れないので、記しておきます。この時は、ホコリのため咳をし過ぎて、喉が切れたみたいです。ダッカの後はタイで休憩しました。お陰さまで、今はすっかり治っています。もう大丈夫です>

 

 

コメント(3)

  1. 北海のかめ より:

    バングラデシュのレポート楽しみに読んでいます。先生のユーモアたっぷりの話し振りがとても楽しいのですが、でも基本はとことん真面目で夢のある活動内容。これからもずっとずっと続きますように。

    それにしても多忙の折お体十分にお気をつけくださいね。

  2. 三浦絹子 より:

    合掌

  3. […] ダッカへ移動する/バングラデッシュ最終日 […]

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