2013年12月の記事

菩薩さまとの出会い

2013/12/25 Categories: 未分類

生涯のほとんどをハンセン病のサナトリウムで過ごされて来た、中村幸枝さんという方がいる。僕はその方に会いに、群馬県の草津に行った。

幸枝さんのことを知ったのは、僕の音楽と本の大ファンになってくれていることを、飯塚さんという旧生徒さんから聞いたからだ。

飯塚さんによれば、6枚のCDを毎日聴いてくれており、本などは何ページに何が書いてあるのかまで憶えていて、飯塚さんに教えてくれるという。

さらに僕の本を、医療従事者に配ることまでして下さっているそうだ。そして、僕の音楽を聴くことによる身体の変化を、論文にまで書いているので、もうびっくり。

ただ残念ながら、最近は目が不自由になってしまった上、脳梗塞を起こして半身が不自由になってしまい、さらに、腎臓病まで併発してしまったと聞いた。

僕は、「これは行かなければならない。」と思った。

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<サナトリウムの前で>

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<飯塚さんと>

その他に聞いたことは、幸枝さんが、浄土真宗の念仏信者さんで、仏教にも造詣が深いということ。僕は、仏教に造詣が深く、なおかつ目が不自由になってしまったのなら、自分が毎週やっている法話ライヴをCDにして、聴いてもらおうと思った。

というのは、法話ライヴは、ユーストリームでネット配信されていて、過去に放映された法話も視聴できるようになっているからだ。

こうして過去の法話ライヴを、CDやDVDに落とすプロジェクトが始まった。幸い、このプロジェクトに賛同するタオサンガの有志が12人も集まってくれ、過去のものも含めて、法話ライヴのCDをサナトリウムに定期的に郵送していけることになった。大感謝! ありがたいことである。

飯塚さんには、「幸枝さんが病室を出られ、春になってからでも来て下さい」と言われていた。でも、東京の4日間のクラスを終えた僕は、1日おいてから群馬県草津市に向かった。ちょっとしたサプライズのつもりで。

サナトリウムの近くのバスターミナルから、飯塚さんに電話した。飯塚さんは、もちろんぶったまげていたが、自宅に向かっていたのをわざわざ引き返してくれ、僕をサナトリウムまで案内してくれた。(その上、患者さんの予約が入っていたのに、キャンセルまでしてくれた。うぅ、申し訳ない、、、)

長い間、僕は幸枝さんという人を、なんとなく中年の女性ぐらいに考えていたのだが、82才と聞いて、またびっくり!

僕の音楽を毎日にように聴き、また、全著作を飽くことなく読んで下さっている上、論文というかエッセイまで書かいていらっしゃる方と聞いて、82才をイメージすることは難しかったのだ。

さて病室に入って紹介してもらうと、幸枝さんは僕が訪ねて来たことに対して、何だか現実感が湧かないようだった。まっ、目も不自由だしね。

少しばかり話をしたあと、僕はさっそくベッドの上で治療を始めた。ところが、、、ものの10分ぐらいで、リハビリの時間になってしまい、聞くと、その他病院スケジュールが2時間以上も続くとかで、あえなく中断。うぅ、、、。僕は、来年の再訪を約して引き上がらざるを得なかった、、、。

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<病室を出たあと>

病室をやむなく辞した僕たちは、このサナトリウムで知り合って結婚されたという、ご主人の中村さんに会いに部屋まで行ってみた。

僕の来訪を驚いて喜んでくれている中村さん。ふと見ると、テーブルには、僕が書いた「タオ指圧入門」(講談社α文庫)と、その隣にはナンと将棋の本があった。

僕は中村さんに、「将棋お好きなんですか?」と聞いたら、「はい」というお返事。聞けば、県の障害者の将棋大会で優勝しているとのこと。そこで僕はすかさず、「中村さん、将棋やりましょう!」と誘い、中村さんは喜んで盤と駒を持って来てくれた。

対戦してみると、ほぼ互角という雰囲気だったのだが、うぅ、負けてしまった。2回目は、僕が勝つ寸前だったのに、どんでん返しの逆転負け!

次回のリベンジ・マッチを約して、僕は部屋を辞した。くそー。次は負けんぞ、中村さん。

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<中村さん、けっこううれしそうに盤と駒を持ってきてくれた>

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<最後に、見事逆転されてしまった〜!>

僕はこのブログのタイトルを、「菩薩さまとの出会い」とした。それは「自分が直接原因でないのに不幸を背負ったり、またハンセン病のような重い病気になったりして苦しむのは、世界のカルマを背負ってくれている、菩薩さまだからである」という認識が、僕にはあるからだ。

仏教には「代受苦」という言葉があるが、それは他の人の代わりに苦しみを受ける菩薩の行為のことである。

もちろん本人は、そうは思っていないに違いない。自分が苦しむのは、自分のカルマが原因だと思っているだろう。こんな病気になって、家族にも迷惑をかけた。こんな自分が悪いんだと思って、自分を責めて来たかも知れない。

でも違うんだ。絶対違うんだ。「あなたは、世界のカルマを背負って病気になって下さった、尊い菩薩さまなんだ。」僕は、そう言ってあげたい。だから僕は、そういう方には、拝むような気持で会う。

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<サナトリウムは、山の上にあった>

、、、その後、僕は大宮、東京経由で、東北に向かった。タオサンガのメンバーが気仙沼にボランテア指圧に行っているので、そのお手伝いをするためである。

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戦争から平和への反転

2013/12/12 Categories:

沖縄で記者会見

博多から沖縄へ飛んだ。沖縄戦時写真の遺族探しの記者会見をするためだ。着いたら「ああ、あったかい〜!」この気候、僕には、ほどよいんだけどなー。

夕方、会見をセッティングされた、うる文化協会の田島さんらと打ち合わせする。翌日の会見には、見つかった2人の遺族の内、1人の方が来てくれるという。

また、写真を常設展示して、今後も引き続き遺族に返還して行ける体制も整ったとのこと。本当に良かった〜。

アメリカの田舎のクロゼットの奥(か何か)で、68年もの長い間、帰国を待っていた写真の英霊たち。彼らの帰る家がやっとできたのである。

そして、さらにここから遺族のもとへと、帰る道筋ができた。僕は心底ホッとし、安堵のため息をもらした。

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 <田島さん。右が安田さん>

解けた長年のナゾ

記者会見の場所は、沖縄県庁の記者クラブとのことで向かったら、日本山妙法寺らしきお坊さん2人が、県庁の前に座り込んで題目(南無妙法蓮華経、ね)を上げていた。

会釈したら向こうも返してくれ、目があったので見たら、意外に若いんで驚いた。というのは、日本山妙法寺のプロテスト行脚って、僕のイメージだと、ヒッピー世代の産物だったからである。

もしかしたら、時代が一巡しているのかも知れないな。まあ、あんましこっちは変わんないけど。(←われながら意味不明)

ところで僕は、本当に長い間ナゾだったことが、この時に解けた。もっともこれは、恐らく誰にとっても、本当にどうでも良い話である。だが、自分の中ではとても大きいことなのだ。

書きかけたので、大した話ではないことを、あらかじめこうしてお断りした上で述べることにする。(何だそんなことか、と思われるのは100%間違いない話だと思うが)

かつて、僕が大好きだったフラワー・トラベリング・バンドという、日本のロックバンドがあった。僕がアメリカに住んでいた頃に、カナダで活躍していたバンドだ。

僕は、アメリカから帰って来たばかりの中学2年生の頃、そのアルバムを一日中聴いていた。アルバム名は、ナンとSATORI。サトリ・パート1から5までの、全5曲である。

その後も僕は、ギタリストの音色や、アップ・ピッキングのみという独特の弾き方を、ずい分と研究したものだ。

さて、その中のサトリ・パート2という曲には、日本の和太鼓のような独特のリズムが使われていた。僕が特に好きだった曲だ。

あのリズムは一体、日本のどこのお祭りの影響によるものなんだろう? このことはずっとナゾのままだった。実は、最近でも、時々考えていたぐらいである。

それが沖縄県庁前でわかった! サトリ・パート2は、日本山妙法寺が題目で叩く、団扇太鼓(うちわ・だいこ)のリズムだったのだ! 僕がサトリ・パート2のリズムに惹かれていた理由が、これで解明できたのである。

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 <団扇太鼓で題目を上げながら「基地なくせ!」とプロテストする日本山妙法寺のお坊さんたち>

写真のご遺族、佐渡山さんと会う

県庁のロビーで田島さんと待っていたら、ご遺族の佐渡山さんがいらした。こちらにもまた驚いた。80過ぎとはとても思えない、背筋のすっと伸びた、ステキな妙齢の御婦人だったのである。

記者会見には、琉球テレビと沖縄タイムスなどが来た。30分と言われていた記者会見だが、やはり地元だけあってとても熱心。質疑応答は、1時間以上にも及んだ。

沖縄記者会見

 <アメリカから帰って来た経緯などについて話す>

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 <一時間以上に及んだ>

沖縄にて写真を手渡す

<写真の返還。右がうる文化協会理事長の川満氏>

沖縄記者会見

<会見は、県庁の記者クラブで行われた>

佐渡山さんをお連れして喫茶店へ

プレスから解放された後は、ご遺族の佐渡山さん、田島さん、高江州さんご夫婦と一緒に喫茶店に行き、ユンタク(琉球語:おしゃべり)した。

佐渡山さんは、ヨガや食養もされており、また戦後は英語を学んで、アメリカン・エキスプレスに勤めていたという方であった。みんなとも興味が共通して、僕らみんなですっかり仲良しになってしまった。

アメリカで68年間眠っていた写真が遺族のもとへ帰り、それを通じて人と人が仲良しになる。何とも、ドミノ倒しのような、不思議なアレンジメントだ。

様々な縁のつながりという流れの中で

その最初の流れを作ったのが、クリスティン。(本人もミュージシャンで、僕の音楽のファンになってくれているとのこと)旦那さんのお祖父さんの遺品の中にあった写真を発見し、「ぜひこれを遺族のもとへ返して欲しい!」とアメリカ在住のすみこさんに、涙を流さんばかりに懇願したらしい。

それからすみこさん。デボラが運営している、ウイスコンシン州のタオサンガ・センターに、ご家族で通い、僕に遺族写真を依頼された。

そして田島さん。かつて僕が、沖縄の精神病院で活動していた時からの良き友人だ。

様々な縁のつながりの中で、今日までの流れがあった。
この流れの中で、個々の心のあり方や人間性が浮き彫りになった。そしてその結果、消えていく縁もあれば、仲良くなる縁もあった。

今日は、このプロジェクト第一フェイズの終わり。そして僕、佐渡山さん、田島さん、高江洲さんご夫婦(ステキな奥さんである。僕はお会いして2度目の高江洲さんに、「高江洲さんは、奥さんで持っているようなものですねー」など図々しいことを言っていたが、これも沖縄の気楽さである)は、喫茶店で楽しくお話しすることができた。きっと、これからもつながるご縁だろう。

このプロジェクトを通じて、僕とすみこさんや息子のマイルス君(12歳)ともつながった。ゲゲゲの鬼太郎が好きだというマイルス君に、鬼太郎の漫画を何冊か送って上げたら、絵の礼状を送ってくれた。

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<アメリカから送ってくれた、マイルス君の絵!>

写真の発見者であるクリスティンとも、つながった。クリスティンは、「アメリカ人が日本人に申し訳ないことをした」という、贖罪感を持っているようなので、僕は、「あなたのお陰で、写真が帰ることができたんですよ」と、感謝メッセージを出すなどして、やり取りをした。

かつての戦争が取り持つ縁で、人と人が平和に仲良くつながったのだ。ドミノ倒しの最後は、まるでオセロゲームのように、戦争から平和へと色が反転したのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

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沖縄へ再び

2013/12/01 Categories:

続きは、沖縄、、、というところで終わった前回のブログ。ああ、なかなか追いつかないなあ、、、。

ところで僕は、勤め人としてサラリーを頂いたのは、あとにも先にも沖縄の精神病院にいたときだけだった。僕は、そこの院長や看護師に指圧を教え、また患者さんを診て、精神医療における東洋医学の効果を本にするということで、1年間の契約で名護に住んでいたのだ。

もっともその企画は、院長の暴利暴走によって労働争議が勃発し、僕が職員側についたためにご破算となった。(損な性格なもんで)そこで、僕のサラリーマン生活もあえなく3ヶ月で終わりを告げたというわけだ。

待遇が、まずまずだったこともあって、その時僕は、“給料をもらうということは、こんなに楽でステキなことだったのか!?” と心底驚いた。そして、多いに楽しんでいたのだけど、、、。それでも僕は、その後も1年ほど住んで、気になる患者さんを診ていた。80年代の頃である。

そんなご縁のある沖縄だった。沖縄の人々の持つ信じられないような優しさや、独特の文化に僕は魅了されていたのだ。

そのこともあったかも知れない。アメリカ在住のすみこさんから、沖縄戦時写真の返還を依頼されたとき、ためらわずにお引き受けしたのは、、、。

その後、沖縄には10年前に行ったきりだった。そして久しぶりに沖縄の土を踏んだ。僕を迎えてくれたのは、名護の精神病院で看護士や空手指導をされていた田島一雄さん。

その人柄は、患者さんにも、また若い看護士たちにも大人気だった。僕は今も尚、つながりを持っていたのだ。

沖縄の戦時写真については、僕は真っ先に田島さんに相談したのだった。

空港で出迎えた僕を田島さんが連れて行ってくれたのは、うる文化協会という、沖縄の文化を振興するところだった。田島さんも沖縄空手の普及者として関わっているという。

そして、そこの面々と沖縄戦時写真の返還事業について相談することになった。

そこで30年ぶりに会った人がいた。政治家になったミュージシャンの喜名昌吉さんだ。

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<うる文化協会で。左から、田島さん、喜名昌吉さん、高江さん、糸数さん>

喜名昌吉さんとは、黒潮祭というヒッピーのお祭りに僕が出演したときに、一緒にステージでセッションしたことがあった。

嵐の翌日だったか何かで、そのお祭りは彼も憶えていて、まあそんな話もしたが、うる文化協会はNPOユニの戦時写真返還プロジェクトを大変喜んでくれた。

それで今後、沖縄戦時遺品については、アメリカや本土の受け皿はNPOユニになり、沖縄の受け皿はうる文化になる、ということになった。

また、さらに今後の展開についても話し合った。戦時写真については、後日僕がまた出直して、あらためて記者会見をすることになった。

沖縄滞在期間中は、田島さんの空手教室で気心道を教えたりもした。

 

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その他にも、偶然の出会いがあった。首里城に向かっている電車の中で、何気なくFacebookを見ていた。すると、東京在住の昔の知り合い(河野秀海さん)が、「今、首里城にいる」と書き込みしているではないか!?  僕はこういう偶然が大好きだ。そこで、さっそく連絡を取り、再開した。

 

 

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 <秀海さんとは、十数年ぶりだった>

夜は、田島さんが不思議な店に連れていってくれた。

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(超レトロな店。沖縄にはこういう不思議なところがあるから大好きである)

 

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