悟りを求める人口1%のあなたに(4)

”えー? 修行が危険な綱渡りだってぇ?  マインドフルネスはビジネスにも良い、とか、読経や瞑想で健康になる、っていうじゃないか!”。

もしかしたらあなたは、そう言うかも知れない。

しかし、音楽や絵画の作品をアートとして生み出すのと、趣味で音楽演奏を楽しみ、日曜画家として絵を描くことには、幸か不幸か、ある種の決定的な違いがある。

無意識の深いレベルから発露した芸術作品は人の心を打つ。その無意識層のレベルが深ければ深いほど、時代を超えた、人類普遍の根源から表れたものとなるからだ。

そんな作品を生むには、自我意識を低下させ、無意識層の深いところに入って行かなくては不可能だ。

だからゴッホは、自ら耳を切るほど精神を病んだ。チャーリー・パーカーなどのジャズミュージシャンたちも、麻薬に溺れるなど、ズタボロだった。

もちろん彼らにしても、もともとそんなアブナイ(危ない)精神の領域に入りやすい人たちではあったはずだ。だからこそ、やむにやまれず音楽や絵画などの芸術作品を生まざるを得なかったとも言える。

しかしこれこそまさに鶏と卵の関係なのである。芸術作品を生むには、自我を低下させて無意識層を掘り起こさざるを得ないからだ。

残念ながら趣味では、自我を突き破って自他の無意識レベルに達するほどの作品にはなりにくい。学芸会のレベルを超えることは、難しいだろう。

自我意識を低下させ、無意識層の深いところに入って行くというのは、スピリチャルな世界であっても同じである。

白隠禅師は、若い頃、禅病にかかったし、またイエスにしても、かなり危ない人だった。(だからこそ、魅力的とも言えるのだが)

神秘体験を得やすい人は、精神に危ないものを持っていることが多い。このことは、ウィリアム・ジェームスの「宗教的経験の諸相」にも述べてある。

法然、日蓮、道元など、仏教に一大革命を興した、鎌倉仏教の祖師方も、皆、激烈だ。イエスも日蓮も親鸞も性格的には激烈である。

法然上人は性格は穏やかだが、当時の仏教を破壊するほど、思想そのものが激烈である。

芸術家は精神を病みながら作品を生む。宗教家も同じだ。皆、危ない橋を渡りながら、ギリギリのところで神、仏、あるいは真理を体験する。そして、新しい思想や精神の地平を人々に指し示すのである。

音楽や絵画、またスピリチャルも、趣味でやる分にはもちろん危険はない。だから、瞑想も自分のためにやる分には、さほど無意識の深い領域に入って行くことはない。

この程度のスピリチャルであれば、心の体操といった程度のことで済むからだ。しかし、人生の真理を追求する修行となると話は違う。無意識層の深いところを掘り起こして行くことになる。 

心の体操などというレベルでは済まない。趣味では芸術作品を生み出せないように、人生の真実、真理を追求するならば、修行もまた同じなのである。

それは決して、修行にかけている時間の長短ではない。無意識層のどこまでのレベルに入っていくものであるかによる。 

もっとも、ある程度は世間に適応し、社会生活を営むためには、強い自我(臨床心理的な意味での)を必要とする。

しかし、人生の真理を追求し、無我や空や神ほとけを体験するには、自我を低下させて無意識層の深いところを掘り起こさなくてはならない。

無意識の意識化に成功し、自我と無我を行き来できるようになれば、精神の自由性を会得する。

実際、この精神の領域には、信じられないほどの宝が隠れ、息づき、そして今この瞬間も、あなたが掘り起こすのを待っているのである。

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