悟りを求める人口1%のあなたに(3)

さて、人の智慧(仏教的な意味での)のレベルがどの程度かは、自分の無意識がどの程度、深く観えているかに顕れる。

なぜなら修行とは、”無意識を意識化する”行為に他ならないからだ。

無意識を意識化する? 

一体何のために?

私たちの無意識の根源が、阿摩羅(アマラ)識という宇宙大霊の意識であるからに他ならない。

無意識が意識化されていくということ。それは、自分の心の中に十界のすべてがあることが認識されていくことである。 

下は地獄から上は浄土(仏菩薩)までの十界が。(”自分にはネガティブな心なんてありません”という人は、こんな話、聞きたくないだろうなぁ)

残念ながら、無意識が意識化されずに、仏の意識(これを”不識”とも言うけど)に目覚めることはない。

ただし、内なる仏に目覚めるとは、内なる地獄に目覚めるということでもある。修行とは、まさに精神的な綱渡りなのである。いくつもの精神的な危機をかいくぐって行く旅なのである。 

これを象徴しているのが、河の真ん中にある細い一本の白い道を通る”二河白道”の絵である。(善導大師が説いたとされる)  

私の解釈では、河の右側は世間に流される自分。左側が、恐怖を現している。

自分の内なる世間は言うだろう。”こんなことやっていて何になるんだね? こんなことやるヒマがあったら、ちゃんと世間並に生きたらどうだい?”、と。

それに、空や無我を体験していくことは、自我にとっては恐怖以外なにものでもない。

描かれているように、お釈迦様は後ろ(東岸)から、“ガンバって行きなよ”と声をかけてくれる。

前には阿弥陀様がいて、“楽しいから、こっちにおいでよ”と声をかけてくれている。

それでも、世間の良い子であろうとする人が聞くのは世間の声だ。

自己の無意識を意識化することで、それまで頑なに守って来た自我が薄くなっていく恐怖に耐えらないからである。

内なるお釈迦さまの声も、阿弥陀様の声も聞こえなかったことにして、道半ばに修行を放棄する。

内なる地獄を乗り越える過程で、内なる仏に目覚めていく以上に、スリリングなことってない。こんなどんでん返し、ハリウッド映画どころの面白さではないんだけどな。

でもまあ、良い子の皆さんは、こんな危険な綱渡りは、決して真似しないようにしましょう。

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