悟りを求める人口1%のあなたに(2)

人生の真実を求めるタイプの人って、きっと生きづらいと思う。

自分もそうだったから、とてもよくわかる。

悟りを求めるような人って、”自分は他の誰とも同じじゃない”、という辛さを、子供のころから味わって来たと思う。

そんな自分を抱えて生きるのは、とても大変なことだ。私はこの本を、そんなタイプの人のための悟りの道しるべになれば、と思って書いた。

したがって、ここXXに書いてあるメソッドにしたがって、各自が自分で行じてみて欲しい。

もっとも「悟り」ほど怪しげでウサン臭い言葉はない。何ごとも、まずは疑ってかかるべきではないかと思う。

そもそも、”私は悟っている、特別な存在だ”なんて言うのは、仏教の基本的な理念である「三法印」(または四法印)や、「十界互具」に照らして観れば、間違い以外の何ものでもない。

”私は神である”なんていうのも同様だ。

まず、三法印の1つに、”独立した個は存在しない”という「諸法無我印」がある。これは、ごく簡単に言えば、”自分も、目の前にいる人も、それぞれ個人として見えているかも知れない。でも個という存在はなく、どちらも宇宙全体の因縁の顕れなんだよ”ということである。

これには一切例外はないので、”私は神で、特別な存在”を自称他称する教祖もまた、宇宙一切の因縁の顕れに過ぎない。そもそも、特別な個人というものは存在しないのだから。

また、大乗仏教の中に、「十界互具」という言葉がある。これの意味がわかれば、“私は悟っている”言うことが、いかに恥ずかしいことであるかがわかる。(そうなんです。こんなこと言ってしまったら、恥以外なにものでもないんですよ)

まず、十界というのは、仏教で説く霊界のこと。

下から言えば、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上。これが輪廻する六つの世界。

さらに声聞・縁覚・菩薩・仏。四つの悟りの世界である。

これは霊的ステージ(段階)みたいな誤解をされることが多い。

しかし実際にはお互いに含み合っているから「互具」という。

これが宇宙の実相(真実)である。

一体どういう意味なのか? 仏や菩薩の心の中には、地獄・餓鬼・畜生の心がある。また、地獄・餓鬼・畜生の心の中にも、仏や菩薩の心が内在している、と言うことである。

なぜ、仏や菩薩の心の中にも、地獄・餓鬼・畜生の心があるのか? 

ちょっと考えてみて欲しい。もし、仮にあなたが犯罪を犯してしまい、刑務所に入れられていたとする。

そこに坊さんか神父さんが来て、”キミ、そんなことしちゃあかんやないか。もう2度とするんじゃないぞ”(なぜか関西弁)と説教されたとする。 

あるいはカウンセラーが来て、”あなたがのそのようなことをしてしまった気持ちわかるよ。どうしても許せなかったんだよね”と言ってくれたとする。

どちらの言葉に救われるだろうか?

答えは明白だ。人は、”理解された”と感じることが、”愛された”と感じることだからである。愛のないところに救いはない。共感や理解のないところに救いはないのである。

仏や菩薩の心の中にも、地獄・餓鬼・畜生のようなネガティブな心が内在している。だからこそ、仏や菩薩はどんな衆生に対しても共感や理解を示すことができる。それらの衆生をして、”愛された”と感じさせることができる。それをきっかけに、彼らが救われることが可能となるのである。

誰だって、自分の心の中や無意識を観れば、ネガティブな心が内在していることがわかるはずだ。

もっとも、時々海外の仏教ワークショップで、”私にはネガティブな心はありません”という人がいる。

 ”私は自分の心を見たくないので見ません”。”ネガティブな人にも共感しません”と宣言しているようなものだ。私は、そんな言葉を聞くと、思わずひっくり返りそうになる。(日本にもそういう人がいるかも知れない)

聖書に出てくる、”律法を守っているオレたちは偉い!” と威張っているパリサイ派というのはこのような人たちのことである。

パリサイ派は、日本で言えば、学歴だの肩書きだので偉そうにする、言ってみれば、ザアマス婦人みたいな人たちのことである。(私も、”オレは高校中退だぜ!”と言って威張っているけど。笑)

彼らは他者への共感性が薄く、”私は良き市民、あいつらはダメ”と、世間に照らして、はみ出し者たちを断罪する。イエス様は彼らのような人たちを見て、”汝ら、裁くことなかれ”と言ったのだ。

関連記事一覧

PAGE TOP