2012年9月の記事

“おれ一体、何やっているんだろう?”そう思う時もあるけれど

2012/09/24 Categories: 日記

駅の階段で、パソコン抱えて座り込み

おれ一体、何やっているんだろう〜? とつい思ってしまった。札幌から来たリミさんたちと軽く一杯飲みながら、ミーティングを兼ねた夕食をしていたが、9pm前になった。

ああ、もう時間かー。9pmには、来年タイで開催する、タオサンガ世界大会のことでミーティングが始まる。ミーティングと言っても、無料のパソコン電話。

海外数カ所をパソコン電話(スカイプ)でつないでの話し合いである。今や、この国際ミーティングだけでも、週に3回ぐらいやっているので、なかなか大変だ。

時差があるので、こちらは9pmでも、アメリカは朝で、ヨーロッパは午後。こちらは夕食どきなんですけど〜。と文句を言うわけにもいかない。このために朝早く起きる、アメリカのデボラやカナダの茂木さんもいるからなあ。

とにかく、急いで夕食を切り上げ、一人自転車で移動。あわててマクドナルドの2階に行ってパソコンをつなぐ。ミーティングは、いつものように「グッドモーニング!」で始まった。

しかしマクドナルドの2階は、思った以上に周囲の声が大きい。その上、遠慮して話すこちらの声は、向こうには聞き取りにくいみたいだ。

ああ、もう!。と、仕方がないから雨がパラつく中、ネット接続したままパソコンを小脇に抱え、駅の半地下に降りる。そして途中の階段に座り込み、僕は、パソコンに向かってどなるような大きな声で、話すこと約1時間、、、。

それで終わったあと、ふぅー、と一人ため息をついて、ふと思うのですよ。気がついたら長い間、自分はホームレスみたいに駅の階段で座り込んでいる。周囲には誰もいない。外は雨も降っている。自転車で帰らなければならない。夕食も切り上げたりして、ああ、いったいオレ何やっているんだろう? って。

LIVE at  Blue Eye

僕らのバンドは LAMANI というのだが、別名“反省バンド”ともいう。何せライブの後に、打ち上げというものをやったことがない。いつもライブ演奏に関する反省会ばかりしているのである。

自分としては、“CDアルバムでは徹底して仕上げている、タイミングやリズム、音量バランスなどをLIVEで再現するには、まだまだやり込んでいかなくてはならない。”と、こんな風に反省の日々なのである。

まあそんなんではあるが、ライブ映像を編集してYou-Tube にアップした。(いずれこの映像は、アップからはずす可能性が大いにある。よって、もし見て下さるならば、今の内です)

http://www.youtube.com/watch?v=yzqa_eShZek

滝行が満行に近づいた

今回は12日間と決めた滝行だった。飛び飛びだったが、満行に近づいた。(もしかしたら、伸ばすかも知れないが) 別時念仏の時、昼に皆さんを滝に案内した。僕はもっぱら車での送迎係で、皆さんに滝行をして頂いた。

自分は後で、ひとり夜の滝行に挑戦。イノシシが出るのでちょっと怖かったけど。

 

<10人以上を滝に送り迎えした>

 <夜の滝は、雰囲気あり過ぎ。ろうそくだけが唯一の明かり>

ゲームChari-TX

東京でも京都でもChari-TXのゲーム大会がバカバカしく盛り上がっているし、FaceBookグループもできた。http://www.facebook.com/groups/275765405857099/

正式名もChari-TX (チャリティックス)に決定。

<ゲーム大会は、楽しそうなのが良いですね〜>

<京都は、“焼き肉いちなん”の屋上でバーベキューしながらの対戦>

ところで一昨日、ボードゲーム製品化のために、印刷の大平さんに紙加工の人を紹介してもらったら、これがビッグヒット! 一人で紙の加工業をやっている職人さんが、爆弾級に面白い人だったからだ。

なにせ、アイドル 歌手のDVD映像見ながら、昼間から酒に酔いつつ、仕事しているのである。こんな人いたんかー。

看板に自分の頭の絵みたいなのや、「ぼちぼちやっております」とか書いてあって、うぅ、僕この人、すっかり気に入ったぜぃ!

 

<左がその職人さんで、右が大平さん。大平さんについては、またあらためて>

爆弾級に面白い、と言えばこれ

以前、書籍として上梓した「気心道」の無料の電子書籍版を出すために、センターで写真撮影。本になった段階では、マジメな部分しか残っていないだろう。

しかし実は、メーキングの段階は、ほぼお笑いの世界。DVD撮影の時もそうだけど、僕がくだらないことばっかり言って、皆さんの邪魔をしながら撮影しているからである。

皆さんが、撮影に励まれている間、僕は、せっせとたぬきのお面を作っていた。そうして、最後に記念撮影として撮った写真が、これ。(一番下の写真)

 

<たぬきのお面を、ナムさんにかぶせて記念撮影>

ふはははは。こういう時は、おれ一体、何やってんだろう、とか思わないから不思議である。

 

 

 

 

 

 

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ああ、人よ。笑わば笑え

2012/09/17 Categories: ゲームCHATRANGA

「むかしある所に、一人の孤独な少年がおりました。なぜか彼は、将棋などの、戦争を模したゲームが好きでした。そして、ずっと長い間、自分が一人で考えて来たゲームを、心の中で温めておりました。どれくらい長い間かというと、、、(何と驚くなかれ)その最初の発想が、幼稚園児の頃というほど。

彼が20才を過ぎた頃、かねてより考えて来たボードゲームを、手製で作りました。(ようするにお絵描きね)やがて、彼と同じアパートに住む人たちが、毎晩のようにこのゲームで遊ぶまでになっていました。

そのアパートとは、今や伝説と化している清和荘。ここには、アングラ演劇の役者たちやミュージシャン(彼もその一人)、また世の中からドロップアウトして自由に暮らす多くの若者たちが多く住んでいました。

<清和荘の住人たちの一部。「金はないけど、心は自由」。旧中野スパイ学校の元校舎というウワサだった、ボロアパート>

清和荘は、三畳一間しかないのに、どこかの部屋で毎晩のように宴会が行われていました。自由に暮らす若者たちは、時間だけは贅沢にありました。そして、みんなこのゲームをするか観戦して遊んでいたのです。

やがてこのアパートには、インドなどを旅する西洋人ヒッピーたちの間でも有名になりました。そして、彼ら西洋人たちも交えて、このゲームは日々改良され、ルールが整備されていったのです。

<後に西洋人たちも住むようになった。左下のビッキーは、このゲーム大好き。最近、パキスタンに住む彼女とフェイスブックでつながった>

その後もルールの研究は続きました。ゲーム内容は深化し、ついにはベーシック、アドバンス、ファイナルと三種が完成するまでになりました。それは、手製のボードゲームを作った時から、10年後のことでした。

ゲームは一時、自ら製品化して、東京のおもちゃ屋などでも販売したり、2、3のゲーム雑誌でも紹介されていたこともありました。また、任天堂の先代社長に、「テレビゲームが流行る前だったら、一世を風靡しただろう」(個人的にちょっと知っていたので)と言わしめたほどでした。しかし、再び自分の心の片隅にしまわれるようになり、いつしか日の目を見る時を待っていました。

<ゲーム雑誌で紹介されたり、都内のおもちゃ屋、数店で販売していたこともあった>

現在このゲームは、Chara-TX(チャラティックス)と名付けられ、オンラインで遊べるように、プログラムが進められています。」                          一応、物語はここまで。

こんな歴史の果てに、このところ急増しているのが、Chara-TXプレイヤー(チャトランガーと呼ぶ)である。そして東京でも、第一回のミニ大会があった。(昨日、第二回があった)

<楽しそうなのがいいなー>

<この最後の一振りで勝つかも!>

<右が、元清和荘の住人の一人。今やププスの名で有名な、ヨーシンさん。左は、25年前にカトマンズの安宿で友だちになったクライブ。彼は一時、香港の伝説的な安宿、チョンキンマンチョンに住んでおり(現在は東京在住)、夜な夜ないろんな人にこのゲームを教えて、やりまくっていたという。>

多くの人が、僕が考案したゲームで遊んでくれるなんて、長年、自分の心にしまって来たことが実現しているようで、まるで夢のようである。

 パレスチナ映画イベントの夜、東京センターで音楽念仏の修行会や法話後には、夜遅くまでホームページのミーティングがあった。

そして遅い夕食をサンガの皆さんと居酒屋で取ったが、チャラテックス・ゲーム話で盛り上がったのは、僕には垂涎ものの喜びであった。

「ああ、人よ。笑わば、笑え」

<ミニ大会で最高勝率賞を取ったゆうすけ(左)と、「かませ犬賞」と呼ばれる最高負け率賞を取っただいすけさん(右)。堂々としているだいすけさんが、とっても大人(たいじん)に見えた。

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スピーチの苦手な僕が、トークイベントの通訳なんて!(汗)

2012/09/11 Categories: 未分類

「壊された5つのカメラ」という映画がある。パレスチナの非暴力抵抗運動を捉えたドキュメンタリー作品。僕がデモに参加した、ビリン村がその舞台だ。

その運動に共に参加する、イスラエル人のガイとパレスチナ人のイマードという2人の監督が共同製作した映画だ。

この映画は、アムステルダム国際ドキュメンタリー映画祭での観客賞・審査員特別賞のダブル受賞を皮切りに、サンダンス映画祭ワールドシネマ監督賞、フランス シネマ・デュ・レエル ルイ・マルコレル賞など、世界各地の映画祭で受賞を続けている。

 さて、それを日本でも上映することになった。そしてNPOユニに、プロモーションのための両監督の渡航費の1部の援助要請があった。パレスチナ在住の日本人を介してである。

NPOユニでは、ガイ監督とも直接やり取りした結果、個人で寄付して下さる方も出て来てくれて、1000ドルほどの援助をすることになった。

そして、この機会に、縮小版(30分)の上映と監督たちのトークイベントをすることになった。場所は、東京タオサンガ道場のある、中野駅近くの公民館。

 そして、、、、成り行きで、なんと僕が出だしのトークと通訳をすることになったのである。(汗、汗、汗)

<中央がガイ監督、左がアマード氏>

<皆さんのおかげで、満員御礼だった>

 なんと言っても僕が一番苦手なのは、結婚式のスピーチ(ドキドキする)とか、LIVEステージでのMC(何話していいのかわからず、立ち往生)等々である。

注※ 東洋医学と仏教の講義は、何とか慣れたのだが、あれにしても最初は、悲壮感ただようほどの使命感があったから、奇跡的にできるようになったのである。

さて、出だしのトークは、「パレスチナ」と聞いてもピンとこない人のために、僕が自分の経験を話した。現地で何が起こっているかを理解してもらうためだ。

また、それを自分ひとりでやることに気後れした僕(タハハ、、、)は、パレスチナ・ナブルスの難民キャンプで会い、共にビリン村のデモに参加した川北さとしさんに来てもらい、彼にも話してもらった。

 

<東エルサレムで、さとしさんと>

<ヘブロンの学校でもチャリティワークショップをやったら、パレスチナ理学療法協会が感謝状をくれた>

<ナブルス難民キャンプ/田中さんと子どもたち>

僕が話したのは、湾岸戦争の時以来、9回イスラエルに行ったこと。パレスチ人居住区の東エルサレムは、テルアビブから、わずか車で40分で行ける距離なのに、そのイスラエルに占領支配され、土地や人権を剥奪されて苦しみあえいでいるパレスチナ人たちの苦しみを全く知らなかったこと。そんな自分が、とても恥ずかしくなったことなどだ。

いかに世界の人々がウソの報道を信じていて、現実を知らないか。その事実を、自分が身を持って知ったこと。そして、パレスチナ人と共に占領反対のデモに参加するに至るまでの、心の葛藤について、などである。

<デモでは催涙弾が飛んで来るので、マスク代わりのハンケチを被着するさとしさん>

イベントの場では、話せなかったこと

デモと聞けば、今は日本の脱原発デモが有名になり、僕もうれしい限りだ。60年代とは違い、警察とも協力し合って、極めて平和的。健康的で大変よろしい、と思う。

実を言うと、ビリン村のデモに参加しようとしていた僕は、思いやりあふれる(?)警告を3つ受けていた。

その1つ目。デモでは催涙弾が飛んで来るから危険。日本人が2人失明した。(実際には、催涙弾が岩に当たってその破片で眼をケガしたということ、と後で判明した)

もっとも、フィー(象さん)というあだ名で、みんなに慕われていた心優しいパレスチナ人が、イスラエル兵による高速催涙弾の直撃で殺されたのは事実である。(またその後、痛ましいことに、彼のお姉さんもデモで催涙弾を浴びて喘息による呼吸困難で死亡している)

<ガスマスクを持っているのは、多分イスラエル人活動家だろう。湾岸戦争の時に、政府が配ったらしいから>

2つ目。イスラエル兵はビリン村のデモ隊に化学兵器を放射しているから危険だ。(実際には、イスラエル軍の放水車が、妙なものが混ざっている黄色くて臭い水を放射していた)

実は、3つ目が大問題だった。それは、「パレスチナ人の少年などが、イスラエル兵に逮捕勾留されると、二度とイスラエルに逆らう気を起させないように、拘置所で拘束された上、独房に男性レイプ魔を送り込まれる」というものであった。

「・・・・。」

いやー、ここまで聞いたら、さすがにひるみましたねー。3つ目まで聞いた時は、正直、蒼くなりましたよー。

“うーん、しかし、ここでシッポを巻いて逃げるという訳にもいかんしなー。”と、ビリン村に行くには、覚悟が必要だった。“ここで安全パイに逃げるなんて、そんなカッコ悪いことできるかよ”と、決心をつけるまで、自分なりにいろいろ葛藤した上での、デモ参加だったのである。

スピーチでは、そんな恐ろしい話までは、肉声で言いたくなかった。それで、パレスチ人たちはとても親切だったという体験を主に話した。デモについては、催涙弾が怖くて葛藤したけど参加した、というところにとどめておいた。

さて、僕のビリン村行きのバス停までの道案内だけをしてくれる予定だったのが、今回、スピーチをお願いした川北さとしさんだった。

 彼が“デモには行かない”というので、ひとり僕が準備をしていたら、突然「やっぱり僕も行きます」と言い出し、イタリア人ジャーナリストのサンドラと共に、デモに参加することになったのである。

<イタリア人ジャーナリスト、サンドラ。お互い、いつのまにか、デモ隊の最前列まで到達してしまった。>

 その後彼は、夜のパレスチナ人村を守るというナイトパトロールの活動までするまでになったのだから、人間というのはわからないものである。

 というところで、彼に話を引き継いでもらった。

<パレスチナの村には、深夜、戦車とイスラエル兵が少年を検挙にやって来る。少年を守るナイトパトロールの国際活動に参加したさとしさんが、その時の恐怖体験を語る。(彼は、東エレサレムでアラビア語を勉強していた)>

 さて、その後の通訳だが、言ってみれば僕のは超訳。(良いか悪いかわからないが)なるべく瞬時に相手の言わんとしていることを理解し、その気持が伝わるように訳すよう努める。

 正直言って、これには自分が話す何倍ものエネルギーが必要だった。質疑応答などで、相手の言いたい所がどこなのかわかりにくい時などは、特にであった。(汗、汗、汗、ふう〜大変、ひぇ〜)

 僕は、“イスラエル人でありながら国籍や利害を超えて、パレスチナ人の苦しみに人間として共感し、活動する心ある人。そんな人と、いつか出会いつながりたい” そう、ずーっと思い続けて来た。だから、イスラエル人監督ガイ氏との出会いは、実りあるものだった。

彼は、仏教にも興味を持っていて、京都のタオサンガセンターの音楽念仏の修行にも参加する予定だった。

それで、京都に来て修行に参加したり、古都の寺巡りなど案内して上げられるようにアレンジした。

彼も京都訪問を楽しみにしていたようだが、直前に東京でのテレビインタビューが入って、来れなくなってしまった。

ガイから来た「残念至極です〜、、、」のメールに僕は、「じゃあまた、京都か世界のどこかで会おう」と返信した。まあ、なにごともご縁ですからね。

皆さんに感謝、そして一人一人の課題とは?

フェイスブックを通じて、援助を申し出て下さった寄付者の方々や、イベントの開催から会場での設営、その他、裏方として動いて下さった方々に、心から感謝したい。

さて、イベントの最後に、ガイ監督が、「パレスチナ問題をどうするかは人類とっての課題である」と言ったが、これは意味深いことばである。

というのは、僕がパレスチナのことに多少なりとも関わり、またこの問題についての人の反応を見て思うことがあるからだ。それは、パレスチナ問題は、「他人の苦しみとどう向き合うのか?」という、私たち一人一人にとっての課題だということである。

<NPOユニで作った、パレスチナ平和的抵抗運動のTシャツ。ヨルダン経由で送られてきた。出資してくれた大久保守晃さんは、僕のかつてのインドの旅仲間である。中央の絵はガンジー>

「最大の悪は、他人の苦しみに対する無関心である」という言葉がある。これを具体的な意味で言い換えれば、パレスチ人の苦しみを他人ごととすることは、チベット人の苦しみ、福島の人の苦しみ、そして米軍基地のある沖縄の苦しみも含めて、すべて人の苦しみを、他人ごとで済ませてしまうことに通じるのではないか? ということである。

※NPOユニのホームページには、より詳しい現地体験記を掲載してある。また、それとは別に浄土宗平和協会の会報に寄稿した記事もアップされている。興味ある方はご参考にされて下さい。http://npouni.net

※また、映画の予告篇は下記アドレスで見ることができる。必見!

http://www.youtube.com/watch?v=If6yPGMLcAI&feature=player_embedded

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久しぶりの滝行念仏

2012/09/03 Categories: 未分類

3年半ぶりだと思うが、滝行念仏に行った。場所は、南禅寺の奥の院の山を上がったところ。ちょっと願を立てたので、今回は12日間行くことにした。

ところで、苦しい時の神頼みではないが、そんなことで願いごとが適うのだろうか?と思われるかも知れない。実は、僕も最初はそう思っていた。だが、これが思いのほか、霊顕あらたかなのである。

<夕方以降の滝の行場は、雰囲気があり過ぎてけっこう怖い>

体験はいくつかあるが、ひとつだけ例を上げることにしよう。かつて同じ合気道の道場で一緒に稽古していた友人がいた。彼女(ドイツ人)は、とある日本のお寺にお嫁に行ったのだが、子どもがなかなか生まれず悩んでいた。

実は、普通一般の寺は、天皇家と同じで後継ぎ問題がとても重要。(カワイソー)したがって、これがなかなか大変なのである。

 その頃の僕は、よく滝の行場に通っていた。そこで悩める友人のために人肌脱ごうと、誕生日に100本のロウソクが入った箱をプレゼントした。それは、滝場では、願いごとをロウソクに書いて灯すのが作法だからである。(僕の知っている範囲では)

そして「ロウソクに願い事を書いて持っておいでよ。代わりに100回滝に通って祈って来て上げるから。僕にはロウソクに何て書いてあるかはわからないように、キリのようなもので掘ればいいよ」と言った。

人に願いごとを読まれるのはイヤだろうな、となんとなく思ったからだが、よく考えてみたら、ドイツ語で書いてりゃ、病院のカルテと同じで、僕にはどうせわからなったな。

 とにかく100本のロウソクを持って、毎日滝行念仏に行った。そうしたら、何と40何本かで懐妊。僕は、拍子抜けするほどあっけないような気がした。しかし医者には、「奇跡的だ」と言われたらしい。

<一度、ほら貝を吹く人山伏さんがやって来た>

僕はその後も、無事に生まれることを願って、100本まで通い続けた。といえば聞こえはいいが、あっけなさ過ぎて、途中で止めるのも何だかシャクなような気がしたからだ(←何考えとんじゃ、おまえは!)。

さて、ご加護のお陰か、無事男児を出産した。彼女が後で述懐したところによると、妊娠を告げられてから生まれるまで、ずーっと護られている感じがしていたそうである。

 ところで僕は、元々とても寒がりだった。どのくらい寒がりだったか白状しよう。僧侶養成の最後に、加行(けぎょう)という真冬に3週間行われる修行がある。知恩院でのそれは、むちゃくちゃ寒いと聞いてビビった僕は、代わりに東京の増上寺で受けたほどなのである。(うー、なさけなか、、、)

それが何とまあ、滝行念仏に行くようになってから変わった。真冬に雪が降っている中でも、滝に打たれたりするのだから、変わらざるを得なかったとも言えるけど。

雪が降っている滝の行場で、口笛吹きながら服を脱いだりするようにもなった。そんな中、前回の3年半前。1月5日から54日間ほど通った。

 寒がりだった僕のこの変化。そのカラクリを言ってしまうと、ようするにイメージなのである。「雪の中=冷たい=やばい大変だ」というイメージがあるのを、「気合いかければ大丈夫」というイメージに換える(換えざるを得ない)。

 そうなると、まあ平気になる。ただ真冬だと、背中なんかは“冷たい”というよりは“痛い”みたいな感じの時も、ちょっとはあるけど、、、。

 面白いのは、雪なんか降っているときよりは、むしろ3月とかの外が春っぽいとき。えーっ? という風に、逆にキツく感じるのである。きっと、イメージでは春なので、身体は冷たくない水をイメージする。しかし実際には、水は冬と同じように冷たい。そのイメージと実際とのギャップで心身にフェイントがかかり、キツく感じるのだろうと思う。

<今日は、随分と水量が少ないなあ、、、>

滝行念仏では、一瞬にして気合いを入れざるを得ない状況になる。トランス的な精神状態に入ることを余儀なくされる。いやでも集中せざるを得ない。その時の集中力が神仏を呼び寄せ、それが祈願の成就に結びついているのかも知れない。

滝行念仏の際に聖水を造ると、エラく気のパワーが入った癒し水ができる。今度作って、欲しい人に差し上げようかな。

 

 

 

 

 

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